都会の喧騒から少しだけ距離を置きたくて、OLの奈々はある週末もまた、近くの川へと向かっていた。満員電車、忙しい上司、終わりの見えないメールの山。すべてを忘れられるのは、ただひとり、川辺で過ごす時間だけだった。
穏やかな水の流れ、風に揺れる草の音、その中で竿を垂らす。今日も釣れなくて構わない。おにぎりでも食べながら、ぼんやりと流れを見つめるのが心地よい。
お気に入りの場所に腰を下ろすと、ポーチからおにぎりを一つ取り出し、丁寧に包みをほどく。梅干しと鮭の、お母さんが握ってくれたような懐かしい味。お茶といっしょに口に含むと、ゆっくりと日常の疲れが溶けていった。
今日はいつにも増して、釣り糸を垂れている腕が軽やかだった。そのとき、隣でやはり竿を垂らしていた少年が、小さな声で話しかけてきた。
「今日、魚来るかな?」
奈々は自然と微笑む。
「来るかもしれないね。ここ、釣れそうな感じがするもん。」
その言葉に、少年はちょっとだけ安心したようだった。
彼の名前はだいき。夏休みを利用して、祖父の家に遊びに来ているという。奈々はおにぎりを半分、だいきに差し出した。
「良かったら、食べる?」
だいきは照れ笑いで受け取り、そのおにぎりをそっと頬張る。
「うまい!」
即座のリアクションに奈々も思わず笑ってしまった。
その後、互いに話しながら釣り糸を垂らしていると、だいきがぽつりと呟いた。
「うちの学校、夏休みがもうすぐ終わっちゃうんだ。もう少し、この川で釣りたいけど…」
奈々は静かに頷いた。
「私もね、週末しか来られないから、来週も来られたらいいなって思ってる。」
その言葉に、だいきの顔が明るくなった。
水面に小さな波紋が広がり、丸い魚影がひとつ、ふたつと姿を現す。二人ともその瞬間を見逃さず、少しだけ時間が止まったような気がした。
「お魚だ!」と少年が叫び、慌てて竿を引いた。奈々の竿もなにかの反応で震えた。それぞれが小さな命と向き合う静寂の時間。どちらもすぐに逃がしたが、それで十分だった。
日が傾き始める頃、奈々は片付けをしながら、小さな声で呟いた。
「ありがとう、今日は…一緒に過ごしてくれて。」
だいきはにっこりと笑った。
「こっちこそ、楽しかったです。おにぎりも。」
奈々はバッグから小さなビニール袋を取り出し、おにぎりをもうひとつ差し出した。
「これ…よかったら、お土産に。私みたいにぼんやり釣りたい時にどうぞ。」
だいきは顔を赤くしながら受け取った。
「ありがとうございます。また来週会えたら、うれしいな。」
奈々も笑顔で答えた。
「うん、またね。」
家に帰る道すがら、胸の中にほんのり暖かい何かが残っているのを感じた。釣果は小さくても、今日の時間はかけがえのない実になる――そんな予感だった。