商店街の端にひっそり建つ「みずきベーカリー」は、昔ながらのパン屋だった。レンガの外壁、手描きの看板、ショーケースの中のパンも素朴な丸い形。だが、今では早朝にも関わらず客は少なく、店主の雅彦も手を止めてはため息をつく日が続いていた。
「このままでは店を閉めるしかない」…そう思い続けていたある朝。雅彦はふと、冷蔵庫で眠っていた小豆を取り出し、昔よく作った“あんパン”を焼いてみた。久しぶりに作るそのパンは、手ごねのふんわり感と甘さ控えめのあんが絶妙で、自分でも驚くほど懐かしい味だった。
その日の昼、常連の老婦人が一口頬張って目を細めた瞬間、雅彦は気づいた。「この味には、何か力がある…」
勇気を振り絞り、雅彦はあんパンをSNSに投稿した。短い文面だけだ。
――閉店しそうだった店から、昔懐かしいあんパンが生まれました。よかったら召し上がってください。
投稿すると、数時間後には反応が届き始めた。「懐かしい味!」、「これを待ってました!」、見ず知らずの人からも「食べたい」との言葉が続いた。翌日には店の電話が鳴り、昼には行列ができ始めた。
その日は閉店時間を延ばし、在庫ほぼ完売。昔の常連も、初めての客も、みんな笑顔だった。あんパンを頬張りながら「昔通りだね」とか「これを待ってたんだ」と語り合う人たちの姿に、雅彦の胸は熱くなった。
「これが、奇跡なんですかね…」
夕方、一歳にも満たない孫を連れた初老の女性が小声で言った。
「このあんパン、私の子どもの頃の味と同じです。祖母もこうやって手作りしてくれたな、とか…忘れていた記憶がよみがえるんです」
その言葉に、雅彦は目を細めて頷いた。
「そうか…懐かしさは、生きる力になるんだ」
それからあんパンは「奇跡のあんパン」として話題を呼び、近所のカフェに並び、朝の通勤前に手にする人も増えていった。半年後、「みずきベーカリー」は店の灯りを消すどころか、定休日を減らし、毎日ラストまで開くパン屋になっていた。
数年後、地元の新聞はあんパンブームを紹介し、「小さなあんパンが消えかけた商店街を救った」と見出しを打った。雅彦は、記事を読みながら小さなおにぎり型のあんパンを手に取り、ほほ笑んだ。
奇跡とは、壮大なものだけじゃない。誰かの懐かしさをそっと思い出させる、小さな一粒のような優しさの連鎖かもしれない。
「奇跡のあんパン」は、今日も店の窓から、小さな希望を届けている。