秋の澄んだ空気のなか、悠はひとり山を登っていた。舗装された旧道は観光客で賑わっていたが、登山に慣れた彼は、ふと気まぐれに脇道へそれた。木々の間に隠れるように伸びる獣道。道なき道のようでいて、どこか人の気配を感じさせるその細道に、悠の足は自然と吸い寄せられた。
しばらく歩くと、急に視界が開けた。そこには、地図にも載っていない静かな池がひっそりと広がっていた。人の手が加えられた形跡はなく、水面は風の音すら拒むように凪いでいる。周囲の木々や空が美しく映り込んでいた。
だが、そこに立つ自分の姿だけが、どこにもなかった。
まるで、鏡から自分だけを切り取られたような違和感。悠は思わず水面に手を伸ばし、静かに触れてみた。波紋が広がる。空も木々も揺れるが、自分はどこにも映らない。
不可解な現象に惹かれ、悠は日を改めてこの池の正体を調べ始めた。だが、地元の観光案内所でも池の情報は見つからず、地図にも記載はなかった。唯一の手がかりは、古びた郷土資料館で見つけた一冊の民俗誌。そこに「映らずの池」の伝承が記されていた。
——かつてこの山の奥には、誰も足を踏み入れてはならぬ禁域があった。そこにある池の水面には、己の姿だけが映らぬという。理由は明らかにされていないが、村人たちはその池を恐れ、封印したという。
さらに読み進めると、恐ろしい記述があった。
——その池には「もうひとりの自分」が眠っている。池に映らないということは、すでにその存在が動き出している証。放っておけば、本物と入れ替わる。
悠は息を呑んだ。民話のような内容ではあったが、あの池の奇妙さは現実だった。まるで、自分の影がどこかに失われたかのような不安感。あれは、ただの自然現象ではなかった。
数日後、再びあの池を訪れた悠は、今度は真剣な目で水面を見つめた。自分はここにいるのに、なぜ映らないのか。水の中の何が、姿を拒んでいるのか。
長い沈黙の末、水面に微かな違和感が生じた。波でも風でもない。誰かがこちらを見ているような、視線の気配。
そのとき、ふいに水面に浮かび上がったのは、自分の顔に酷似した「何か」だった。だが、その目は悠のものではなかった。感情の色を失ったように、ただ淡く、静かに笑っていた。
思わず後ずさった瞬間、水面に映る木々がぐにゃりと歪んだ。まるで水の中の世界が、本物を侵食し始めたかのように。
その夜、宿に戻った悠は、鏡を何度も覗いた。だがそこには、自分が映っていた。ただ、どこか違和感が拭えなかった。鏡の中の自分は微笑んでいた。そんな表情を、自分はしていないはずなのに。
それ以来、悠は夢を見るようになった。水面の奥に沈む、もうひとりの自分。あの日の山、あの日の空気、そして無言でこちらを見つめる白い顔。
ある日、友人に言われた。
「最近のお前、なんか雰囲気変わったな。前より穏やかっていうか……ちょっと他人みたい」
悠は笑って返した。けれど、その笑みもまた、自分のものではない気がしていた。