世界は、理想に近づきすぎていた。
飢えはなく、戦争もなく、誰もが等しく教育を受け、最低限の幸福が保証される社会。先天的な疾患も、偶発的な不運も、すべて制度によって均され、運命すら等しく管理されていた。人類はついに「公平」という名の神を手に入れたのだ。
その代償が“人類平等税”だった。
年に一度、世界政府によって「最も幸福な一人」が選ばれる。そして、その者から何かが奪われる。命であることもあれば、記憶、才能、愛、時には名前すら。それは制度の中で唯一、不確定で残酷な要素だった。
今年、その対象に選ばれたのは、一人の男だった。名は朝霧ユウト。三十五歳。家族に恵まれ、仕事に恵まれ、心身ともに健康で、誰もが羨むような人生を歩んでいた。統計上、今年最も「幸福な人間」とされた。
通知は、ある朝、無感情な使者によって届けられた。手渡された書面にはこうあった。
——あなたは2025年度「人類平等税」の納税者に選出されました。
本年は特例として、“失うものを自ら選ぶ権利”が付与されます。選択は一度限り、変更不可。
選択可能な喪失対象:
①記憶 ②家族 ③身体機能の一部 ④未来の寿命10年分 ⑤幸福感そのもの
ユウトは静かに、書面を見つめた。
選ぶ自由があることは、救いか、それとも罰か。
「幸福を保証するために、幸福を奪う」という矛盾に、彼は初めて制度の歪みを感じた。
その夜、ユウトは妻と幼い娘の寝顔をじっと見つめた。②を選べば、彼らはいなくなる。だが彼らは今も、隣で幸せそうに眠っている。
①を選べば、自分自身が何者であったかを忘れてしまう。愛した記憶も、苦しんで乗り越えた日々もすべて消える。
④なら、自分が死ぬ日は早まる。だが、それまでの日々は維持される。幸福を縮める選択。
⑤を選べば、幸福そのものを感じられなくなる。生きていても、何も感じられない人間として生きるだけ。
そして③——身体機能の一部を失う。足か、目か、声か。見えなくなる娘の笑顔。聞こえなくなる妻の声。歩けなくなる日常。
彼は三日三晩悩み続けた。食事も眠りも忘れて、ただ、選択肢を睨み続けた。
四日目の朝、彼は決意した。
「⑤——幸福感そのものを失う」
数時間後、彼は静かに変わった。
娘が笑っても、心は動かない。妻が抱きしめても、何も温かくなかった。春の風も、夏の匂いも、彼の中をすり抜けていく。
それでも彼は、微笑んだ。笑顔の形だけは、まだ残せた。
「これで、家族は守れたから」
彼の中に幸福はもうない。だが、彼の選択は、誰かの幸福を守った。その事実だけが、どこかに灯を残していた。
世界はまた一年、平等を続ける。