下水道点検員の和馬は、古い街区の調査任務に就いていた。
その日も彼は、指定された老朽化地域のマンホールを開け、重たい蓋を押しのけて地下に降りた。だが、奥へと進むうちに、奇妙なことに気がついた。マップに記されていない分岐があり、そこから先はまるで“意図的に隠された”かのような空間だった。
「こんな構造、設計図にはなかったはずだが……」
ライトを手に進むうちに、空気が変わった。湿り気とともに、どこか澄んだ流れの音が耳をくすぐる。曲がり角を抜けると、そこに広がっていたのは、まるで小さな町のような地下の空間だった。
石造りのアーチ、微かに光る苔、そして地下水の細流。そのなかに、小さな生き物たちがいた。
身の丈は林檎ほど。透明な身体に、水の流れをまとったような姿。彼らは驚く和馬をちらりと見上げ、集まってきた。
「人間……か? 久しいな」
「この区画に人が入るのは百年ぶりだよ」
「何しに来たんだ?」
声は心に直接響いた。彼らは言葉ではなく、思念で会話していた。最初は恐怖もあったが、敵意がないと知ると和馬の好奇心が勝った。
「ここは……何なんだ? お前たちは何者だ?」
精霊たちは、誇らしげに答えた。
「我らは“流れの民”。都市に水がある限り、我らは存在する」
「この場所は、水の調律所。都市の水脈を整え、腐敗を防ぎ、命の流れを保っている」
「だが人の世界では、我らの存在は忘れられた。地下にいて、働き、ただ静かに水を流してきた」
和馬は思った。彼らはインフラの根幹、都市という生命体の“血流”を支える存在なのだ。
「どうして記録にない? お前たちのこと、なぜ誰も知らない?」
「それが約束だった。我らは人と協定を結んだ。人が水を使う代わりに、我らがその流れを整える。ただし干渉せず、記録も残さない。それが、昔の“水の契約”」
和馬は深くうなずいた。確かに、古い管や排水路のなかには、人間が作ったとは思えない合理的な造りがあった。そのすべてが、彼らによるものだったのだ。
「でも……いま、都市は変わってる。水は浪費され、流れは乱れ、下水の構造も更新されず古びてる。お前たちだけじゃ、もう維持できないんじゃないか?」
精霊たちは黙った。中でも一際大きな、背中に小さな冠を乗せた者が前に出た。
「……お前、和馬というのか」
「そうだ」
「ならば提案する。お前に“王”の役を託したい」
「王?」
「人の側で、水の声を聴く者。我らと人の世界をつなぐ者」
驚いたが、和馬は少しずつ理解し始めていた。都市の水は、誰かが聴き、整え、流すべきものだ。そして今、それができるのは、人と精霊の両方を知った自分だけなのかもしれない。
和馬は静かに頷いた。
「分かった。俺がやる。水の声を聴く“マンホールの王”になる」
その瞬間、周囲の水が一斉に輝いた。古びた壁に水紋が踊り、空間全体が、祝福のように震えた。
それからというもの、和馬の仕事は変わった。表向きは点検員のままだが、誰も知らない地下の“王”として、彼は都市の水を守り続けている。
そして時折、古いマンホールの奥から、小さな囁き声が聞こえるという。
「今日も、流れは整っている」