【短編小説】ピントの合う場所で

ドラマ

人気動画クリエイター、美波は今、田舎町の小さな農道に立っていた。

東京の喧騒を離れ、「癒しと再発見」をテーマにした新シリーズの撮影のため、スタッフと共に地方を訪れたのだ。見渡す限りの田んぼと山並み。ぽつぽつと建つ瓦屋根の家々に、ノスタルジックな電柱。視聴者が好みそうな“素朴な風景”は揃っていた。

だが、美波のカメラは、どこか落ち着きなくレンズをさまよわせていた。

構図は美しい。光も申し分ない。でも、フレームの中に生きている“何か”が見つからなかった。見た目は完璧なのに、まるで誰かの手で飾られた模型のように、どこか空虚に感じられた。

そのときだった。

畦道の先で、黙々と作業をしている青年の姿が目に入った。日焼けした肌に泥のついた作業服。大きな草刈機を器用に操りながら、時おり帽子を押さえて汗をぬぐう姿に、カメラ越しの美波の視線が吸い寄せられた。

「ちょっと、撮ってもいいですか?」

思わず声をかけた。

彼は驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑んだ。「こんなもんでよけりゃ」と、少し照れたようにうなずいた。その素朴な反応に、美波の心がふと緩むのを感じた。

それが、悠馬との出会いだった。

その後、美波はロケの合間に何度か彼の元を訪れるようになった。彼は町のはずれの古い家に一人で暮らし、昼は畑を手伝い、夜はコンビニでバイトをしているという。派手さも劇的な物語もない、淡々とした暮らし。

けれど、彼の生活には、画面越しには決して表現しきれない“厚み”があった。

カメラを向けると、悠馬は何も気取らず、いつものままの動きを続けた。洗濯物を干す姿、朝の畑で朝露に濡れながら野菜を摘む姿、ひとりで夕飯を作る音。どれもが、どこか懐かしく、温かかった。

ある日、美波は聞いた。

「なんで、ここで一人で暮らしてるの?」

悠馬は一瞬黙った後、ぽつりと答えた。

「逃げてきたんだ、都会から。親の会社、友達付き合い、SNS……全部疲れちゃって。何をやっても、誰かの目が気になって、自分が消えてく気がしてさ」

言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「でも、ここじゃ誰も干渉してこない。朝起きたら、鳥の声がして、土の匂いがして……。それだけで、あぁ、生きてるなって思えるんだよね」

その言葉を聞いたとき、美波の中で、何かが崩れ落ちた。

自分がこれまで撮ってきたもの。それは“誰かが求める絵”だった。トレンドに合わせた色味、バズる構図、視聴維持率を意識した編集。でも、悠馬の暮らしには、それとは無縁の、けれど確かな“時間”が流れていた。

誰にも見せるためじゃない日々。誰かの評価とは無関係な息づかい。それは、美波がいつの間にか忘れてしまっていた“本当の生活”だった。

ロケ最終日、美波は編集スタッフに静かに告げた。

「この町の映像、全部撮り直したい。人の手の跡がある場所に、ピントを合わせたいの」

その夜、美波はひとり、月の下で悠馬の家の前に立ち、録画ボタンを押した。真っ暗な縁側に、彼の影が座っていた。湯気の立つマグカップ、虫の声、夜風に揺れるカーテン。何も語らない映像に、なぜか涙が滲んだ。

東京に戻った後、美波のチャンネルに新しい動画がアップされた。タイトルは、「ただ、そこにある日々」。

再生数は、過去作より少なかった。でも、コメント欄は静かな感動で満ちていた。

——派手じゃないのに、涙が出ました。
——映像の奥から、風の音と一緒に“誰かの暮らし”が伝わってくる。
——こんなに“息づかい”を感じる映像、初めてです。

数字では測れないものが、そこにあった。

画面の向こうで、美波は気づいたのだ。ピントを合わせるべき場所は、美しいだけの景色じゃない。誰かが今日も生きている、その証こそが、本当に撮りたかったものだったのだ。

そして今も、どこかの畦道の先で、悠馬は静かに暮らしている。誰にも誇らず、誰にも媚びず。ただ、土の匂いのする朝に、目を覚ましながら。

タイトルとURLをコピーしました