終電を逃したのは、仕事の飲み会が長引いたからだった。
外は雨。スマホの充電は切れ、タクシーは全車“配車中”。紗英は濡れたパンプスの中で足が冷えていくのを感じながら、肩をすぼめて歩いていた。
ふと、視界にぼんやりと光る看板が目に入る。
——「24時間営業 牛丼・味万」。
古びた看板。けれど、その灯りがやけに温かく思えた。紗英は引き寄せられるように扉を開けた。
カウンター席が10ほどの小さな店。客はひとりだけ。黒いジャケットを着た男性が、静かに牛丼を食べていた。
「いらっしゃいませ」
店主の低く柔らかい声に迎えられ、紗英は入り口近くの席に腰を下ろした。
「牛丼、並で。あと……味噌汁も」
湯気が立ちのぼる丼を受け取り、一口食べた瞬間、体の奥にじんわりと温かさが染みた。今日、ちゃんとした食事はこれが初めてだ。
「こんな夜に、よく見つけましたね」
ふいに声がした。隣の男性——春日が、紗英に視線を向けていた。
「あ、はい。たまたま……雨に負けて」
「僕も同じです。雨と終電と、ちょっとした現実逃避で」
彼はそう言って、微かに笑った。整った横顔に、どこか疲れと穏やかさが同居している。その笑みに、不思議と心が和らいだ。
「こんな遅くまで、お仕事ですか?」
「ええ、広告の制作会社で。今日はクライアントの接待でした。あなたは?」
「システム開発です。今日もトラブル処理で、終わったのがついさっき」
それからぽつぽつと、言葉を交わした。
ふたりの会話は、どこかテンポが似ていた。話しすぎず、黙りすぎず。沈黙が、気まずさではなく“余白”として存在しているようだった。
「……この牛丼屋、たまに寄るんです」
「いつもひとりで?」
「そうですね。誰かと一緒に来るような場所じゃないし。でも……あなたが座ってるの、いつも僕が座る席です」
「それは失礼しました」
「いえ、今日はなんだか、そっちの方がいい気がして」
照れくさそうに笑う春日の目を、紗英は少しだけ長く見つめた。
それからの時間、ふたりは特別な話をしたわけではない。ただ、仕事の愚痴、最近見た映画、コーヒーの好み。そんな何気ない話が、なぜか心に深く染みた。
「……なんか、落ち着きますね。春日さんと話すと」
「それ、僕も思ってました。話してると、自分が自分に戻れる感じがして」
その言葉に、紗英の胸の奥がじんと温かくなった。
こんな夜に、こんな場所で、名前も知らなかった誰かと心が通うことがあるなんて。誰かと繋がるには、理由なんて要らないのかもしれない——そう思えた。
外が少しずつ明るくなってきた。窓の外、雨は止み、東の空がわずかに紅く染まりはじめていた。
春日はコーヒーのカップを指で回しながら、少しだけ間を置いて言った。
「よかったら、また……ここで会いませんか。終電を逃した日でも、そうじゃなくても」
紗英は驚き、そしてすぐに笑った。
「……いいですね。きっと、牛丼も待っててくれる」
朝日が差し込んだ店内で、ふたりの距離は、確かに少しだけ近づいていた。
まるで、長い夜の最後に訪れる、小さな奇跡のように。