夜明け前、エンジンの低い唸りが静寂を破る。
長距離トラックドライバーの修一は、今日もまたハンドルを握る。彼の仕事は、荷物とともに、日本各地を走ること。東北の雪道から、九州の海沿いの道まで——彼のタイヤが踏んできたアスファルトは、地図よりも正確に記憶されていた。
荷台に積まれているのは、工場部品。納品先は愛知。早朝の出発を選んだのは、渋滞を避けるためでもあり、夜明けの道を独り占めしたかったからでもある。
「おはようございます、こちらは“ラジオ旅人”の時間です」
ラジオから流れるパーソナリティの声が、眠気を追い払う。彼はいつもこの番組から一日を始める。視聴者から届いた手紙を読み上げたり、旅先の話をしたり、テンポはゆっくりだが、そこがいい。
目の前に広がるのは、誰もいない一本道。トンネルを抜け、霧の中を進み、やがて朝日が山の端を染め始める。トラックのフロントガラスは巨大なスクリーンだ。そこに映るのは、誰のフィルターも通さない“本当の景色”。
「今日は、風が強いな」
彼は独り言をつぶやき、アクセルを踏み直す。
風は、トラックドライバーにとって強敵でもあるが、どこか仲間のようでもある。同じように国中を走り回り、名前も顔もないまま、すれ違っていく存在。
途中のパーキングエリアで、遅い朝食をとった。ベンチに座っていると、隣のテーブルに見覚えのある顔があった。関西方面を走るベテラン運転手、矢野だ。
「よぉ、修一。今朝も飛ばしてんのか?」
「いや、のんびりと。風に負けそうでさ」
「そうかい、じゃあ今日も風を追い越せよ」
冗談交じりの言葉に、修一は小さく笑った。
走りながら、時折思い出すのは、若い頃に見た忘れられない景色たちだ。北陸の日本海沿いで見た、雷鳴とともに広がる水平線。四国の山中で、霧の中から急に姿を現した鹿の群れ。誰もいない深夜のサービスエリアで、自販機の明かりの下で眠っていた子ども連れの家族。
「道ってのは、ただの移動手段じゃない。記憶を運ぶものだ」
そんなことを、ある先輩が言っていた。今ではその意味が、少しずつ染みてきた。
修一は家族を持たず、今は一人暮らしだ。けれど、寂しいと思ったことは少ない。道の上には、人とすれ違い、また別れることをくり返す“物語”があるからだ。
夕方、目的地の配送センターに到着し、荷下ろしを終える。作業員たちの会話や笑い声を背に、修一はサインをもらって車に戻る。
空はすでに茜色に染まり始めていた。
帰路、彼はふと山間の小道にトラックを止めた。そこは、数年前にたまたま休憩で立ち寄った場所。何の変哲もない道端だが、そのとき見た夕陽の美しさが、記憶に焼きついていた。
エンジンを切り、ドアを開けて外に出る。風が頬を撫でた。すこし肌寒いが、その冷たさもまた懐かしい。
「……風を追い越せたかな」
誰にともなく呟き、目を閉じた。
その瞬間、頭の中に過去の風景がよみがえってくる。あの日すれ違った誰かの横顔、夜明けの国道、雨に濡れた高速の匂い——それらすべてが、自分だけの“地図”になっている。
人生は旅だと言うけれど、修一にとっては“道”そのものが生きている証だった。
トラックに戻ると、ラジオのスイッチを入れた。
「今日も、風とともに旅をするあなたへ——この一曲を」
流れてきたのは、どこか懐かしいメロディ。
再びアクセルを踏み、トラックは静かに動き出す。誰もいない道を、風を追い越すように走っていく。
そして、またひとつ、“記憶”を積みながら。