秋の陽射しが斜めに降りそそぐ山道で、少女・結は夢中で栗を拾っていた。
祖母の家の裏山。今年も栗の季節がやってきて、毎年恒例の“栗拾い遠足”がはじまる。栗の毬(いが)は痛いけれど、その中から顔を覗かせる茶色の実を見つけた瞬間、どこか宝物を見つけたような気分になる。
「これで栗ご飯三回分!」
喜々として声を上げたその時だった。
——「ありがとう」
かすかに、誰かの声が聞こえた。
結は耳を澄ました。風が葉を揺らす音。鳥のさえずり。でも、それらとは違う、もっと小さく、柔らかな声。
「……ありがとう、拾ってくれて」
再び、はっきりと。
驚いて手元を見ると、手に握った一粒の栗が、ほんのり温かく、うっすらと震えていた。次の瞬間、ぽんっと煙のようなものが立ちのぼり、目の前に“何か”が現れた。
ころんと丸い体に、小さな手足。栗の帽子をちょこんと被った、小さな生き物——それが、結をじっと見上げていた。
「……ひ、人?」
「ちがうよ。ぼくは“こっくりさん”。栗の精だよ」
栗の精、こっくりさんは、まるで昔話の挿絵から抜け出したような姿だった。とろんとした目に、まあるい頬。声も表情も、どこか眠たげで、しかし不思議と安心感があった。
「栗にはね、たまに“心のこもった手”に拾われると、目を覚ますやつがいるんだ。ぼくみたいに」
結は言葉を失いながらも、うなずいた。
それからの時間は、まるで夢の中だった。
こっくりさんは、結を山の奥へと案内した。道なき道を進んだ先に現れたのは、人間の目には映らない精霊たちの世界だった。朽ちた木に宿る木霊、石の隙間で息づく苔の子ら、そして秋風に乗って歌うススキの精たち。
「この山はね、昔からたくさんの“ありがとう”でできてるんだ」
こっくりさんが静かに言った。
「木を植えて、手入れして、山の実りを分け合って。人間も、動物も、精霊も、ちゃんと挨拶してた。でも最近は、ありがとうの声が少なくなってきた」
結は思い出した。祖母がいつも言っていた言葉。
——栗を拾ったら、山に一礼しなさいね。山の神様に「ありがとう」を忘れないように。
「山って、消えちゃうの……?」
ぽつりと結が聞いた。
こっくりさんは、少し寂しそうに笑った。
「消えるっていうより、眠るんだよ。思い出してくれる誰かがいれば、また目を覚ます。でも、誰にも見てもらえなくなったら、夢の中に戻るだけさ」
その言葉に、結はぎゅっと栗の実を握りしめた。
「わたし、ちゃんと覚えてるよ。山のにおいも、風の音も、栗の味も、こっくりさんのことも……」
こっくりさんは、ふふっと笑った。
「じゃあ、また秋になったら会えるかもね」
陽が落ち始める頃、結は山を下りた。手には一粒の栗。ポケットには、こっくりさんがくれた、どんぐりの笛。
祖母の家に戻ると、夕飯には栗ご飯が炊かれていた。
ひと口食べて、結は目を見張った。
あの日拾った栗。あの栗の中に、きっと、こっくりさんがいた。
それから何年も経った。
結は大人になり、都会で働くようになった。でも、秋になるたびに思い出す。風の匂い、山の声、そしてあの眠たげな栗の精。
そして、ある年の秋。
久しぶりに祖母の家を訪れた結は、一人で山に入った。
静かな森の中、ふと足元に光る栗の実があった。
そっと手を伸ばす。
——「ありがとう」
微かに聞こえたその声に、結は思わず微笑んだ。
「ただいま、こっくりさん」
風がさらりと髪を撫でた。
山は、今日も静かに息づいていた。