雨が降ると、涼は決まってあの洋館の前に立つ。
街のはずれにひっそり佇む古い建物。今はもう人が住んでおらず、雨の日にだけ庭の門が開いている。理由は誰も知らない。けれど涼は、あの場所がなぜか心にしっくりと馴染むのを感じていた。
洋館の庭には、紫陽花が咲いている。
石畳を挟んで左右に広がる色とりどりの花たち。雨粒をまとって、まるで静かに呼吸しているようだった。赤、青、紫——同じ株なのに、少しずつ違う色が並ぶのが紫陽花の不思議。
その中に、一輪だけ——どの色にも染まらない、白っぽい紫陽花があった。
「……きれい」
涼はその花の前で立ち止まり、傘をたたんだ。濡れるのもかまわなかった。曇りの中で光っているようなその花に、なぜか目が離せなかったのだ。
その夜、涼は不思議な夢を見た。
雨の庭、あの白い紫陽花の下。土がふわりと開き、中から小さな女の子が現れた。透き通る肌に、花びらのようなドレス。まるで眠り姫のように、すやすやと寝息を立てている妖精。
——そして朝。
夢だと思っていたその光景が、現実になっていた。
再び洋館を訪れた涼は、紫陽花の根元に、小さな影を見つけた。
「……ほんとうに、いたんだ」
それは夢で見たままの、花の妖精だった。目を閉じ、静かに眠っている。触れてしまいそうで、涼はしゃがみこみ、そっと見守った。
しばらくして、妖精はまぶしそうに目を開けた。
「……あなた、だれ?」
「わたしは涼。きみの名前は?」
妖精はゆっくりと体を起こし、小さな声で言った。
「わたしは……うーん、“色無し”」
「それ、名前なの?」
「まだ色が決まってないから。でも、あじさいって、土の記憶で色が変わるんだって。人の心にも、そういう記憶があるんでしょ?」
涼は少し驚いた。けれど、不思議と納得もした。
妖精——色無しは、涼の手のひらに乗れるほどの大きさで、庭の花たちと話すことができた。涼は毎日のように通い、色無しとおしゃべりをするようになった。
ある日、涼はポツリとつぶやいた。
「わたし、いま……ひとりなの」
両親は共働きで忙しく、最近は夕飯も別々が多い。学校でもなんとなく友だちと距離ができていて、「大丈夫?」と聞かれても「うん」としか言えない自分が、少し苦しかった。
「ほんとうは……寂しいって思うのに」
色無しは黙って、そっと涼の指を握った。
「気持ちって、口にしないと染まらないんだよ。心の色も、あじさいと同じ」
その言葉が、涼の胸にすとんと落ちた。
次の日、涼は思いきって母に言った。
「今日ね、寂しかったの。家に帰っても、誰もいないのはちょっと……」
母は驚いたように目を見開いたあと、そっと抱きしめてくれた。
「ごめんね。でも、言ってくれてありがとう」
その夜、涼は洋館の庭に向かった。
雨の中、白かった紫陽花が、ほんのりと淡い青に染まっていた。
色無しは、その下でにっこり笑っていた。
「ね、ほら。ちゃんと心の記憶が届いたんだよ」
涼は笑った。そして、小さく囁いた。
「ありがとう、こっくりさん……じゃなくて、色付きさん、かな?」
色無しは照れたように笑い、そっと手を振った。
それを最後に、涼が洋館を訪れたとき、あの白い紫陽花はもうなかった。けれど、心の中には、あの雨の庭と、小さな友だちの記憶が確かに残っていた。
今も、雨が降るたび、涼は窓の外を見ながらそっとつぶやく。
「今日は、どんな色の気持ちだろう?」
——あじさいの眠る庭は、もう見えなくても、心の中で静かに咲き続けている。