老人ホーム「陽だまりの丘」で暮らす八重子は、静かな春の午後を過ごしていた。
窓の外には、満開のミモザの木。風が吹くたび、小さな黄色の花がふわりと揺れ、日差しに染まる。八重子は、その木を見るのが好きだった。理由は自分でもよくわからない。ただ、あの花を見ると、どこか懐かしい気持ちになった。
今日は、本来なら息子の誠が訪ねてくるはずだった。
だが午前中、ホームに一本の電話が入った。
「急な仕事で行けそうにない」とのこと。
「仕方ないね」と八重子は笑ったけれど、電話を切ったあと、窓の向こうに広がるミモザの花が少しだけ遠くに感じられた。
——何か言葉にしたいけれど、何を言っても重たくなる気がして、何も言えないまま時だけが過ぎていく。
そんな午後、ひとりの少女がホームを訪ねてきた。
「こんにちは……あの、八重子おばあちゃんのお部屋、どちらですか?」
小学五年生の凛。八重子の孫であり、誠のひとり娘だった。
両親には内緒で、一人で電車を乗り継いできたのだという。
「なんだい、どうしたの。ひとりで……」
「うん、なんとなく。会いたくなっちゃった」
そう言って笑う顔に、八重子の胸がきゅっとなった。
ふたりは並んでミモザの花を眺め、缶入りの紅茶を分け合った。昔話をしたり、凛の学校の話を聞いたり、言葉よりも、静かな間が心地よかった。
やがて凛が、部屋の棚を何気なく開けたとき、小さな木箱が目に入った。
「これ、なに?」
「……ああ、それは」
八重子は少し戸惑った顔をしたが、「読んでみなさい」と箱を開いた。
中には、ひとつの封筒が入っていた。くすんだクリーム色の封筒。裏には「誠へ」とだけ書かれていた。
それは、数年前に書いた、出すことのできなかった手紙だった。
——あのとき、あなたが仕事を辞めて都会に出ていったとき、私は何も言えなかった。
——家を出る背中に「行かないで」と言いたかったけれど、それはあなたの夢を縛ることになる気がして。
——でもね、ずっと応援してた。ずっと、あなたを誇りに思っていた。
凛は、手紙を抱えながら言った。
「これ、パパに渡してもいい?」
八重子はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりうなずいた。
「……凛になら、託せるよ」
数日後、凛はその手紙を父・誠にそっと差し出した。
「おばあちゃん、渡してほしいって。……ほんとは、前から渡したかったみたい」
誠は最初、驚いたように封筒を見つめ、それから黙って読み始めた。
読み終えたあと、長い沈黙。
「……知らなかった。母さん、そんなふうに思ってくれてたなんて」
「パパ、今度はちゃんと会いに行こうよ。私もまた行きたいな、ミモザがきれいだった」
誠は小さくうなずき、目元を手で押さえた。
その週末、八重子のもとを訪れた誠は、何も言わず、そっとミモザの枝を差し出した。
「……覚えてる? 昔、この花を一緒に植えたって」
八重子は、しばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「もちろん。あなたが小学五年生のときだったよ」
「あの頃の気持ち、ちゃんと思い出せた気がするよ。……ありがとう」
風が吹いて、ミモザの花が揺れた。
それは、手紙の言葉がようやく届いた瞬間だった。
それからというもの、週末になると、凛と誠はホームを訪ねるようになった。
ミモザの下でおしゃべりをして、おやつを食べて、笑い合う。少しずつ、でも確かに、家族の空気がやわらかくほどけていった。
——言えなかった想いも、手紙にすれば、ちゃんと届く。
ミモザは今日も、黄色い花を揺らしながら、静かに見守っている。