スキマ時間を埋めるように働き続ける、大学三年生の理沙。
制服を着替えるたびに、声色や立ち位置を変えながら、彼女はさまざまな「顔」になっていきます。
ひとつひとつは短く、名も残らない時間。
けれど、その断片は確かに、彼女の中に積み重なっていました。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:6〜7分
- 気分:静かで淡々/じんわりと余韻が残る
- おすすめ:将来に迷っている学生、日々の役割に名前を見失いそうな人
あらすじ(ネタバレなし)
スキマバイトアプリを使い、30分、数時間単位で働く理沙は、日々さまざまな現場を渡り歩いています。
パン屋、清掃、ティッシュ配り、工場作業——そこでは毎回、別の役割、別の「顔」を求められます。
名前を知られない代わりに、理沙が受け取るのは、誰かとの短い言葉や視線、気配の記憶でした。
断片的な出会いを拾い集めながら、彼女は少しずつ、自分が「そこにいた」確かさを感じ始めていきます。
本編
理沙は、スマホの画面を見つめながら、次の“顔”を選ぶ。
「駅前のパン屋:販売補助、時給1100円、3時間」
指がタップを押すと、通知音が鳴る。
バイト確定。スキマバイトアプリで、またひとつ今日の時間が埋まった。
大学三年生。就職活動の前段階に入りつつも、特に夢はない。かといって、焦りがないわけでもない。だからこそ、空いた時間に“何か”を埋めるように、理沙はいろいろな現場で働いていた。
パン屋では白いシャツに三角巾をつけ、「いらっしゃいませ」と声を張る。
昼前、子ども連れの母親が「このクリームパン、まだ温かいよ」と子どもに話しかけたとき、理沙の手も、ほんのりと生地の柔らかさを思い出していた。
「ありがとうね」と言われ、レジの向こうでそっと微笑み返す。
バイトが終われば、その制服を脱ぎ、別の自分に戻る。
夕方、今度はビルの清掃現場。ゴム手袋にモップ。名前も知らない人たちと、無言の時間を分け合う。
「学生さん? 手際いいね」
無口そうな年配の女性が、ふとそう言った。
「いえ……まだまだで」
そう返したとき、言葉の中に少し“居場所”ができた気がした。
夜になれば、ティッシュ配り。ネオンの下、通り過ぎる無数の足音。ほとんどの人は受け取らない。けれど、一人だけ、立ち止まってこう言った。
「今日、誕生日なんだ」
若い女性だった。通りすがりに立ち止まり、ティッシュを受け取ると、そうぽつりとこぼした。
「おめでとうございます」
理沙はとっさに言った。
「ティッシュだけですけど……気持ちです」
女性は笑って、ペコリとお辞儀した。それだけの会話。でも、不思議な余韻が、しばらく心に残った。
深夜、時には工場でラベル貼り。機械のように単純な作業。でも、手元を見つめていると、少しずつ“無心”になっていく。
「単純な作業のほうが、考えごとできるから好き」
隣の席の男子学生が言った。
「私も……結構、そうかもです」
そう答えると、彼は少し驚いたように笑った。
「意外。話しかけにくい雰囲気だったから」
理沙は苦笑いした。知らない誰かの言葉が、自分を鏡のように映すこともある。
30分後、別の場所で、また別の服を着て、また別の声を出す。
誰も理沙の名前を知らない。
けれど、その代わりに、彼女は無数の“出会いのかけら”を拾い集めていた。
ある日、ふと大学の講義の合間に、公園のベンチに座った。
スマホを見ず、空を見た。風が枝を揺らし、落ち葉が地面を跳ねた。
手の中には、朝のバイト先でもらった菓子パンの包み。パン屋の店長が「余ったから持ってきな」と言って渡してくれた。
その甘さが、妙にあたたかかった。
——私は誰かの顔になれる。
そう思った。
販売員、清掃員、配布員、作業員。役割は短く、名札はその日限り。
でも、そのときその場所で、理沙は確かに“居た”。
そして、誰かと一言、交わした。
それが、無数の断片として胸に残っていく。
もしかしたら人生は、そういう小さな断片の積み重ねなのかもしれない。
アプリの通知が鳴った。
「次の案件が見つかりました」
画面には、新しいバイトの一覧。
理沙は、ひとつ選びながら、そっとつぶやいた。
「じゃあ、次の30分は、どんな顔になろうか」
その声は誰にも届かない。でも、自分にはちゃんと聞こえていた。
今日もまた、見知らぬ誰かの前で、理沙は静かに“その人”になる。

