【短編小説】コップ一杯の夕暮れ

日常

4月の風はまだ少し冷たくて、紗英は首をすくめながらアパートの鍵を回した。

新社会人としての生活が始まって、3週間。職場は忙しく、覚えることは山ほどあり、ミスをすれば冷や汗、うまくいっても「当然」と流される。

「社会人なんだから、当たり前だよね」

先輩のその一言が、妙に胸に引っかかった。

家に帰れば、ただ一人。コンビニ弁当のビニールを破る音だけが響く。壁は薄く、隣の部屋のテレビの音がかすかに聞こえる。けれど、自分の部屋には“人の声”がなかった。

「慣れれば楽になる」と誰かが言った。けれど、何にどう慣れればいいのか、わからなかった。

そんなある日の夕方、近所のスーパーで、彼女はその人に出会った。

カゴにかご盛りトマトを入れようとしたとき、同時に手を伸ばした女性がいて、二人は一瞬、顔を見合わせて笑った。

「どうぞどうぞ」

「いえ、先にどうぞ」

言葉を交わしたのは、それだけだった。

けれど、次の週もまたスーパーで出会った。今度は卵売り場。そして、その翌週は牛乳コーナー。

「奇遇ですね」

「ほんとに。週一で同じ場所に出会うって、運命かも」

その一言で、ふたりの距離がぐっと近づいた。

彼女の名前は遥香。同じ年で、別の会社に勤めていた。話すとおっとりしているが、芯はしっかりしていて、自炊が得意だという。

「おかず、多めに作っちゃったから、よかったら一緒にどう?」

最初に声をかけてくれたのは遥香だった。

紗英は戸惑いながらも、うなずいた。

遥香の部屋は、紗英の住むアパートの2階上。間取りは同じはずなのに、彼女の部屋はどこか“温かい空気”が流れていた。

カレーの香り。テーブルに並んだ小鉢。壁にかかった古いカレンダー。窓辺には、一輪だけ咲いた黄色いガーベラ。

「好きなんです、こういう夕方の時間」

遥香は言った。

「日が暮れて、電気をつける前の、ちょっとぼんやりした時間。ほら、コップ一杯の水みたいな、ちょうどいい感じっていうか」

その表現に、紗英の心が少しだけ揺れた。

夕方の時間。自分はいつも焦っていた。疲れて帰ってきて、やることだけをこなして、明日に備えて寝る。その中で、“ぼんやりする時間”なんて、考えたこともなかった。

それから、ふたりは週に一度、どちらかの部屋で夕飯をシェアするようになった。

たわいもない話。失敗した仕事。上司の口癖。実家のこと。次第に、紗英の暮らしにも“温かさ”が差し込むようになった。

気がつけば、帰宅途中のスーパーで、献立を考えるようになっていた。卵焼きにもうひと品加えようとか、ご飯を炊く時間を逆算するとか。

そうやって、“自分の時間”ができていった。

ある日、遥香が言った。

「今日、すごく嫌なことがあって。上司に無視されちゃって……でも、紗英ちゃんに話そうと思って我慢できた」

その言葉が、紗英の胸をあたためた。

「私も……遥香ちゃんがいると思うと、ちょっとだけ頑張れるんだ」

知らない土地で、一人きりで始まった生活に、少しずつ“誰かといる風景”が混ざっていく。

夕方のキッチン、湯気の立つ鍋、笑い声。
全部が、初めての春の記憶になっていく。

日が少しずつ長くなり、風の匂いが変わる頃、紗英はふと気づいた。

「私、ここに住んでるんだなあ」

仕事はまだ慣れない。失敗もするし、帰り道にため息もつく。だけど、帰る場所に“光”がある。

部屋の電気をつける前、ぼんやりとした夕暮れの時間。

コップ一杯の水のような、ちょうどいいその時間に、自分は少しずつ“生活”を始めていた。

きっと、明日もまた、スーパーでトマトを選ぶ。

それだけでいいと思えた。

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