【7分で読める短編小説】既読担当|スタンプひとつ分の距離を越える、静かな一歩の物語

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社内チャットで、既読と定型返信を代行する“既読担当”として働く私。
感情を込めない言葉は楽で、安全で、誰も傷つけません。
けれど、ある先輩からの一通を前に、そのやり方が通じなくなってしまいます。
言葉を送ることの重さと、直接伝える勇気を描いた、静かなオフィスの物語です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:しんみり/やさしく背中を押される
  • おすすめ:気持ちを言葉にするのが苦手な人、職場での距離感に悩んだことがある人、スタンプの裏にある本音を抱えている人

あらすじ(ネタバレなし)

社内チャットでのやり取りが苦手な人たちの代わりに、既読と定型返信を送る“既読担当”の私。
感情を込めずに済むその役割は、私自身にとっても心地よい距離を保つ手段でした。
しかし、穏やかで気遣い上手な先輩・高城からの感謝のメッセージに、いつものスタンプが送れなくなります。
言葉を代行できない相手がいることに気づいた私は、チャットではなく、直接声をかける選択をします。
スタンプひとつ分の距離を越えた先で、初めて自分の言葉を送る――その小さな一歩が、関係を静かに変えていきます。

本編

 社内チャットの通知音が鳴るたび、私は反射的に画面を確認する。
 スタンプひとつ、定型文ひとつ。それが私の役目だった。

 正式な肩書きはもちろんない。
 でも部署の中では、半ば公然の秘密として知られている。
「既読担当」――正確には、“既読と最低限の返信を代行する人”。

 チャットが苦手な人は、案外多い。
 言葉を選びすぎて送れなくなる人、既読をつけるだけで緊張する人、返事を考えるうちに時間が過ぎてしまう人。
 私はそういう人の代わりに、「了解です」「ありがとうございます」と、当たり障りのないスタンプを送る。

 自分がやるのは、平気だった。
 感情を込めない文面は、むしろ楽だった。

 その日も、昼休みにチャットが流れた。

〈佐久間〉
「午後の資料、最終版これでいけそう?」

 私は隣の席の後輩に目配せする。
「送っとくね」
 いつものように、親指で“OK”スタンプをタップする。

 次の通知。

〈高城〉
「例の件、ありがとう。助かったよ」

 高城先輩。
 その名前を見た瞬間、指が止まった。

 ……スタンプでいいはずなのに。
 “感謝”のスタンプも、“了解”の一言も、用意はできている。
 なのに、送れなかった。

「どうしたの?」
 後輩が不思議そうに聞く。
「……ちょっと待って」

 画面を閉じ、深呼吸した。

 高城先輩は、部署でも評判の人だ。
 穏やかで、仕事が早くて、誰にでも同じ距離で接する。
 特別なことをされた覚えはない。
 ただ、打ち合わせのあとに「無理してない?」と声をかけられたこと。
 残業の夜に、缶コーヒーをそっと机に置かれたこと。

 どれも、些細なことだ。
 でも、その“些細”が、積もっていた。

 チャット画面を開き直す。
 未読ではない。
 でも、未返信。

 これまで何百件も代わりに送ってきたスタンプが、急に遠いものに感じた。

「……代われない」

 呟いた声は、思ったよりはっきりしていた。

 結局、その日は返信できなかった。
 代わりに、退勤間際に先輩の席へ向かった。

「高城先輩」
「ん?」

 顔を上げた先輩は、いつも通り穏やかだった。
 でも、直接言葉を向けられる距離に、胸が少し苦しくなる。

「さっきの……ありがとうございました」
 それだけ言うのに、喉が渇いた。

「どういたしまして。あ、チャット、返事来てなかったから、忙しかったかなって思ってた」
「……すみません。あの、スタンプで済ませるのが、今日はできなくて」

 一瞬の沈黙。
 それから、先輩は少しだけ目を丸くして、笑った。

「それって、ちゃんと返したかったってこと?」
「……はい」

 心臓が、跳ねた。

「そっか」
 それ以上、踏み込んでこなかった。
 でも、その“踏み込まなさ”が、優しかった。

 その夜、帰り道でスマホが震えた。

〈高城〉
「今日は直接話せてよかった。
 また、スタンプじゃなくてもいいから、話そう」

 画面を見つめ、指が震える。
 でも今度は、逃げなかった。

「ありがとうございます。
 ……私も、そう思ってました」

 送信。

 たったそれだけの一文。
 でも、今までで一番、勇気のいる送信だった。

 スタンプひとつぶんの距離を越えた先に、
 言葉で伝えたい気持ちが、確かに芽生えていた。

 その夜、通知音はいつもより少し、やさしく聞こえた。

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