【5分で読める短編小説】その一杯、覚えています|変わらない朝に差し出された小さな気づき

日常

毎朝同じ時間、同じコンビニで、同じ缶コーヒーを買う。
それが、主人公にとって一日を始めるための静かな儀式でした。
けれど“いつもの一杯”が棚から消えたことをきっかけに、少しずつ朝の風景が揺らぎ始めます。
名前も知らない店員との、ささやかなやり取りが、日常をほんの少し変えていく物語です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:5分
  • 気分:しみじみ/やさしく前向きになれる
  • おすすめ:毎日が同じ繰り返しに感じている人、通勤前の静かな時間が好きな人、小さな変化に救われた経験がある人

あらすじ(ネタバレなし)

毎朝決まった時間にコンビニで同じ缶コーヒーを買う主人公。
会話もなく、淡々と続くその習慣が、ある日「いつもの商品が棚から消えた」ことで崩れ始めます。
代わりに手に取った別のコーヒー、そしてレジで交わされるごく短い言葉。
店員が自分の好みを覚えていたことに気づき、主人公の中で少しずつ朝の意味が変わっていきます。
変わらないと思っていた日常が、実は選び直せるものだったと知る、静かであたたかな一編です。

本編

 毎朝七時十二分。
 駅前のコンビニに入り、右手で棚の下段から缶コーヒーを一本取る。
 ブラック、無糖、少し苦いやつ。
 それが、俺の一日の始まりだった。

 レジの前に立つと、店員の女性が軽く会釈する。
「おはようございます」
「おはようございます」

 それ以上の会話はない。
 それでいい。
 名前も知らないし、知る必要もない。
 毎朝同じ時間、同じ動作を繰り返すことで、気持ちを整えていた。

 ——その日までは。

 棚の前で、俺は足を止めた。
 いつもの缶が、ない。
 代わりに、見慣れない新商品が並んでいる。

「……あれ?」

 思わず声が漏れる。
 上段も下段も確認するが、やはりない。
 仕方なく、隣にあった似たようなブラックを手に取った。

 レジに立つと、店員の女性が一瞬だけ俺の手元を見た。
 ほんの一瞬。
 でも、なぜか気づいた。

 何も言われなかった。
 会計はいつも通り、淡々と終わる。

 なのに、胸の奥が少しざわついた。

 翌朝。
 同じ時間、同じコンビニ。

 また棚を確認するが、やはり「いつもの」はない。
 昨日と同じ代替品を手に取り、レジへ向かう。

 すると、会計の途中で、店員が小さく声をかけてきた。

「……もしよければ、こちらも似た味ですよ」

 差し出されたのは、別のメーカーの缶コーヒーだった。
 ブラック、無糖。
 俺が普段買っていたものより、少しだけパッケージが地味だ。

「今朝、入ったばかりで」
 そう付け加えて、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 一瞬迷って、俺はうなずいた。
「じゃあ、それで」

 その日のコーヒーは、
 驚くほど、いつもに近い味がした。

 三日目。
 四日目。
 「いつもの」は戻らない。

 でも、レジでは毎朝、さりげない提案が続いた。

「今日は、昨日より少し苦めのがあります」
「こっちは後味が軽いです」

 押しつけがましくない。
 おすすめ、というより、共有。

 俺は気づいてしまった。
 この人は、俺が何を選んでいたか、ちゃんと覚えている。

 それが、なんだか不思議で、少しだけ嬉しかった。

 ある雨の朝。
 傘をたたきながらレジに立つと、彼女が言った。

「今日は寒いですね。
 ホットもありますけど……」

 その言葉に、俺は初めて笑った。
「じゃあ、今日はホットで」

 缶を受け取る。
 指先に、じんわり温度が伝わる。

 外に出ると、雨音がいつもより静かに聞こえた。

 それから少しずつ、変わった。
 通勤中に空を見上げる余裕ができた。
 昼休みに、違う店の弁当を選ぶようになった。
 「いつも通り」じゃない日が、思ったより悪くないと知った。

 そして、ある朝。
 棚に、懐かしい缶が戻っていた。

「あ……」

 手に取るか、一瞬迷う。
 結局、俺はそのままレジへ向かった。

「今日は、どうします?」
 彼女が、初めて俺の目を見て聞いた。

 俺は棚を振り返り、それから答えた。
「……昨日おすすめしてくれたやつで」

 彼女は少しだけ、驚いたように笑った。

 レシートを受け取りながら、ふと思う。
 あのコーヒーがなくなっていなかったら。
 俺はずっと、同じ朝を繰り返していた。

 覚えられていたのは、
 コーヒーの種類だけじゃない。

 変わらないと思っていた自分の毎日が、
 実は、少しずつ動かせるものだと——
 そのことを、教えてもらったのかもしれない。

 店を出ると、朝の空気がやけに澄んでいた。
 缶のふたを開ける。

 その一杯は、
 昨日までより、少しだけ新しい味がした。

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