【7分で読める短編小説】雨粒が選ばなかった道|もしもの人生と、いまを歩くための静かな決意

ファンタジー

土砂降りの雨の中、帰り道でふと現れた見覚えのない横断歩道。
そこに落ちる雨粒が映し出したのは、選ばなかったはずの、いくつもの「別の人生」でした。
羨ましさと後悔、そして安堵が交錯するなかで、主人公は“いまの自分”に立ち返っていきます。
過去の選択に迷った夜、静かに読みたい一編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:しんみり/静かに前向き
  • おすすめ:過去の選択をふと思い返す夜がある人、今の道でやり直せるか不安な人、人生の「もしも」に心を引っ張られたことがある人

あらすじ(ネタバレなし)

激しい雨の帰り道、主人公は見覚えのない横断歩道と大きな水たまりに出会う。
そこに落ちる雨粒は、音楽を続けた自分、家業を継いだ自分、海外へ渡った自分など、選ばなかった人生を次々と映し出す。
どの人生にも惹かれながら、最後に映ったのは、今とほとんど同じ日常の中で、止まっていた夢に再び手を伸ばす自分の姿だった。
主人公は“別の道”を渡らず、いまの道を歩く選択をする。
選ばなかった道を抱えたまま、それでも続きを書いていく決意を描く物語。

本編

 その日は、空が壊れたみたいな雨だった。
 会社を出た瞬間、傘に叩きつけられる音が、街の輪郭をかき消す。
 信号待ちの列に並び、足元を見ると、横断歩道の白線のあいだに大きな水たまりができていた。

 ——こんな道、あったっけ。

 見覚えのない横断歩道が、雨に滲んで現れている。
 白線は少し古く、角が丸い。信号機はあるのに、表示はどこか遅れている。
 不思議に思いながら一歩踏み出すと、傘の先から落ちた雫が、水面に輪を描いた。

 その輪の中心で、景色が瞬いた。

 輪の中に見えたのは、若い自分だった。
 大学卒業後、就職せず、音楽を続けている。
 狭い部屋、壁に立てかけたギター、窓から差す夕焼け。
 生活は楽じゃない。でも、目は今よりずっと澄んでいる。

 次の雫が落ちる。

 今度は、別の自分。
 地方の街で、家業を継いでいる。
 父と並んで作業し、夕方には店の前で缶コーヒーを飲む。
 派手さはないが、呼吸が穏やかだ。

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 さらに雫が落ちるたび、別の人生が覗く。
 海外に渡った自分。
 結婚が早かった自分。
 挑戦して失敗し、別の場所でやり直した自分。

 どれも、少しだけ羨ましい。
 どれも、完全ではない。

 ふと気づく。
 輪の外にいる“今の自分”は、どの景色にも映っていない。

 横断歩道の向こう側で、信号が青に変わる音がした。
 けれど、足が動かない。
 この道を渡りきったら、戻れない気がした。

 最後の雫が、静かに落ちた。

 そこに映ったのは、今とほとんど同じ日常。
 同じ会社、同じ帰り道。
 ただ一つ違うのは、帰宅後に机の引き出しを開け、しまい込んでいたノートを取り出す自分の姿だった。

 白紙のページに、ゆっくり言葉を書き始める。
 夢を“諦めた”のではなく、“後回しにした”ままの自分。

 胸の奥で、何かがほどけた。

 雨が少し弱まった。
 信号は、相変わらず青だ。

 俺は、見覚えのない横断歩道ではなく、いつもの横断歩道に足を向けた。
 水たまりを避け、白線の上を踏みしめる。

 渡り切った瞬間、背後で雨音が一段、軽くなった。
 振り返ると、さっきの横断歩道は、もうない。
 あるのは、ただの濡れたアスファルトだけだ。

 家に着き、傘を閉じる。
 引き出しを開け、ノートを取り出す。
 白紙に、今日の日付を書く。

 もしもの道は、確かに存在した。
 でも、選ばなかった道は、消えたわけじゃない。
 今の道の上で、続きを書けるだけだ。

 窓の外で、最後の雨粒が落ちた。
 それはもう、別の世界を映さなかった。
 ただ、これからの現実を、静かに濡らしていくだけだった。

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