取材のすべてを音声で記録する記者の「俺」は、いつものように深夜の編集部でデータを再生していました。
そこで混じり込んだ、説明のつかない一瞬の声。
削除され、見落とされ、再生されなかったはずの一秒が、静かに現実を揺さぶっていきます。
見えない声に耳を澄ますことの意味を問いかける、緊張と余韻の残る物語です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分
- 気分:張りつめた静けさ/余韻が残る
- おすすめ:社会の裏側にある声に関心がある人、記録やメディアの役割について考えたことがある人、小さなきっかけが大きな結果を生む物語が好きな人
あらすじ(ネタバレなし)
音声入力で取材メモを残す記者のもとに、説明のつかない「声」が混じったデータが現れる。
それは、再開発が進む港湾倉庫街の取材音声に紛れ込んだ、かすかな「助けて」という一言だった。
半信半疑のまま現地を訪れた記者は、夜の倉庫で再び同じ声を耳にする。
やがて明らかになるのは、再開発の裏に隠された不正と、外に届くことを願って発せられた、ほとんど消えかけた声の存在。
記録されなかったはずの一秒が、世界を少しだけ動かしていく物語。
本編
取材メモは、もう何年も音声入力だ。
走り書きの癖が出ないし、感情の揺れも残る。記者としては、便利以上の理由があった。
深夜、編集部のデスクで、俺はその日の取材データを再生していた。
港湾倉庫街の再開発。補助金の流れ。関係者の歯切れの悪い言い回し。
いつも通りの夜だ。
――ザッ。
ノイズの向こうで、かすれた音が混じった。
「……たす、けて……」
俺は再生を止めた。
ヘッドホンを外し、室内の静けさを確かめる。誰もいない。空調の低い唸りだけだ。
もう一度、同じ箇所を再生する。
確かに、声がある。小さく、短い。俺の声じゃない。
女でも男でもなく、年齢も判別できない。ただ、切羽詰まった響きだけが残っている。
――気のせいだ。
そう思おうとして、できなかった。
なぜなら、その直前の自分の発話が、こう残っていたからだ。
「……この倉庫、夜は立ち入り禁止ですよね?」
取材先は、港に近い古い倉庫群。再開発の陰で、立ち退きが進み、夜は人影がない。
関係者は、笑って答えたはずだ。
「ええ、夜は誰もいませんよ」
なのに、その後に「助けて」が混じる理由が、どこにもない。
翌日、俺は再び倉庫街へ向かった。
昼の顔は、拍子抜けするほど平穏だ。警備員が巡回し、工事の音が遠くで鳴る。
夜の記憶と、うまく結びつかない。
念のため、別の音声も確認した。
過去三日分。
同じ声は、ない。
その夜、俺は倉庫の外れに立った。
風が強く、波の匂いが濃い。
録音アプリを起動し、何も話さずに歩いた。
――ザッ。
足音。風切り音。
そして、また。
「……たす、けて……」
今度は、はっきりと聞こえた。
俺は立ち止まり、音のする方を見た。
シャッターの半分下りた倉庫。隙間は、人が一人通れるかどうか。
胸の奥が、冷たくなる。
俺は録音を続けたまま、シャッターを押し上げた。
中は暗く、潮と油の匂いが混じっている。
奥で、かすかな物音。
照明を点けると、簡易ベッドと、束ねられた配線。
そして、壁際に座り込む人影があった。
事情は単純だった。
再開発に絡む不正。下請けの作業員が、告発をほのめかし、脅され、ここに閉じ込められていた。
携帯は壊され、声を出せば見張りに気づかれる。
だから、彼は夜ごと、息の合間に、かすれた声を漏らしていた。
録音機器が拾うかどうかも、分からないほど小さな声を。
救急と警察を呼び、彼は運ばれていった。
後日、俺の記事は、静かに、しかし確実に波紋を広げた。
デスクに戻り、例の音声を再生する。
「助けて」は、もう入っていない。
代わりに、風の音だけが続く。
俺は再生を止め、録音設定を確認した。
ノイズ抑制は、強。
人の声は、削られやすい。
――録り損ねた言葉。
いや、録らせた言葉だったのかもしれない。
夜の編集部で、俺はヘッドホンを置いた。
一秒にも満たない声が、世界を少しだけ動かした。
それだけで、記者としては、十分だった。

