父の定年祝いの夜、頼まれたスマホの機種変更。
そこに残っていたのは、仕事の成果ではなく、家族の背中と風景ばかりでした。
語らなかった父の時間と、静かに測られていた距離。
写真を辿るうちに、娘はようやくその意味に気づいていきます。
親子の間に流れていた、言葉にならない愛情を描いた物語です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分
- 気分:しんみり/あたたかく胸に残る
- おすすめ:親の背中を思い出すことが増えた人、家族との距離を考えたことがある人、言葉にしない優しさに触れたい人
あらすじ(ネタバレなし)
父の定年をきっかけに、娘は父の古いスマホのデータ移行を手伝う。
そこに保存されていたのは、書類や仕事の写真ではなく、家族の後ろ姿や何気ない風景ばかりだった。
撮影日を辿ると、それらは家族にとって節目となる日と重なっていることに気づく。
父は語らず、前に出ず、ただ少し後ろから家族を見守り続けていた。
シャッターに残された記録を通して、娘は父との距離と、これからの関係を静かに受け取っていく。
本編
父の定年祝いの食事を終えた夜、私は実家のこたつでスマホを二台並べていた。
「機種変更、頼むわ」
父はそう言って、古いスマホを差し出した。仕事一筋だった人だ。データの中身も、会議資料や工場の写真ばかりだろう——そう思っていた。
移行アプリを起動し、カメラロールを開いた瞬間、予想は外れた。
書類も製品も、ほとんどない。
あるのは、背中。
母の背中、私の背中、駅のホームで電車を待つ後ろ姿。
そして、川沿いの夕焼け、雨上がりの道路、遠くの山。
「……これ、全部お父さんが撮ったの?」
「うん。まあ、散歩のついでに」
父はそれ以上、説明しない。
私は写真を一枚ずつ、撮影日で並べ替えた。
一枚目。十年前の春。
桜の下、ランドセルの私の後ろ姿。
その日は、父が単身赴任に出る前日だった。
次の写真は、駅の改札。母の肩越しに、少しだけ切れた切符の写真。
二枚目。五年前の夏。
川面に反射する夕日。
撮影日のメモに、病院名が写り込んでいる。母が手術を受けた日だ。
父は病室に入る前、川を見ていたのだろう。
三枚目。三年前の冬。
雪の降る朝、家の前の道路。
その日は、私が転職を迷って電話をかけた日だった。
父は「好きにしろ」とだけ言って、切った。
写真の雪は、踏み固められていない。誰も歩いていない。
ページをめくるたび、胸の奥が静かに鳴った。
父は、話さない代わりに、シャッターを切っていた。
「仕事の写真、ないんだね」
私が言うと、父は少し考えてから答えた。
「仕事は、見せるもんじゃない」
「じゃあ、これは?」
私は、母の背中の写真を指した。
父は目を細めた。
「……見てたって、残したかっただけだ」
その言葉で、腑に落ちた。
父はいつも、家族の少し後ろにいた。前に出ない。指示もしない。
ただ、転ばないように、置き去りにならないように、距離を測っていた。
最後の写真は、昨日のものだった。
駅前の交差点。信号待ちの私の背中。
定年祝いの帰り道だ。
「これ、いつ撮ったの?」
「昨日」
「どうして?」
父は少し照れたように言った。
「前に出る番が、終わったからな」
移行が完了し、新しいスマホに写真が並ぶ。
私は父の手に、それを戻した。
「これからは、前から撮ってもいいんじゃない?」
父は笑って首を振る。
「後ろでいい。前は、お前が見る」
玄関を出ると、夜風がやさしかった。
私は歩き出し、数歩先で振り返る。
父は、いつもの距離で立っている。
シャッター音がした。
今度は、私が前にいる。
写真フォルダに残ったものは、
言葉にならなかった感情の、整然とした並びだった。
そしてそれは、これからの距離を測るための、静かな定規でもあった。

