【5分で読める短編小説】その人は、Enterキーで返事をする|言葉を使わない距離が、そっと縮む物語

日常

話しかけない約束が守られる場所で、私たちは音だけを共有していました。
隣の席から聞こえるキーボードのリズム、コーヒーの間合い、強く打たれるEnter。
顔も名前も知らないのに、気分がわかってしまう不思議な関係。
けれど、その音が消えたとき、初めて気づくのです——失っていた静かな支えに。
最小限の接点が、確かな返事になるまでの、やさしい短編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:5分
  • 気分:しんみり/静かにあたたまる
  • おすすめ:言葉にしない関係を大切にしたい人、集中できる場所が好きな人、距離感のある優しさに救われた経験がある人

あらすじ(ネタバレなし)

コワーキングスペースの窓際で、隣に座る“その人”は、話さない。
代わりに、キーボードの音とEnterキーの強さが、気分を伝えてくる。
ある日、その音が途切れ、席は空いたままになる。
静けさの中で、主人公は音に支えられていた自分に気づき、短いメッセージを残す。
数日後、戻ってきた隣人と交わされるのは、言葉ではなく、澄んだEnterの一打。
それは確かに、返事だった。

本編

 コワーキングスペースの窓際、いつも同じ席の一つ隣。
 名前も知らないその人は、顔を上げない。フードを深くかぶり、モニターに向かって、ただキーを打つ。

 でも、音でわかる。
 その人が今、どんな気分か。

 軽い朝は、タタタ、タン。
 迷っている日は、……タ、タ、タ。
 締切が近い午後は、カタカタカタ、カン!と強いEnter。

 私も顔を上げない。
 ここは、話しかけない約束が守られる場所だ。
 それでも、音は勝手に届く。

 十一時半。
 彼――と勝手に決めているその人は、必ずコーヒーを飲む。
 一口目は短く、二口目は長い。
 三口目が来ない日は、だいたい調子が悪い。

 私は、そのタイミングで自分のマグに口をつける。
 同調でも、合図でもない。
 ただ、隣に人がいると知るための、癖だ。

 ある日、キーボードの音が重かった。
 タ……タ……
 間が長い。
 Enterが来ない。

 コーヒーの時間になっても、音がしない。
 代わりに、ため息が一つ。

 私は画面から目を離さず、耳だけを傾けた。
 それが、この距離の礼儀だと思っていたから。

 夕方、彼は先に席を立った。
 椅子の引く音が、いつもより静かだった。

 次の日。
 隣の席は空いていた。

 その次の日も。
 そのまた次の日も。

 静かすぎて、集中できない自分に気づく。
 キーボードの音がないと、時間の目盛りが狂う。

 十一時半。
 私はコーヒーを飲みかけて、止めた。
 合わせる相手が、いない。

 週の終わり、管理カウンターに立ち寄る。
「隣の席、いつも使ってた人、最近見ませんね」
 受付の人は端末を見て、首を傾げた。
「しばらく休会ですね。体調不良って」

 胸の奥で、Enterキーが鳴った。
 カン。

 迷った。
 ここは、現実の接点を持たない場所だ。
 音だけで知って、音だけで別れる。
 それで、きれいだった。

 でも、私はメモ帳を開いた。
 短く、余白の多い文。

 「いつも隣でした。音、戻ったら、また聞かせてください。」

 匿名掲示板のような、共有メッセージ欄に置く。
 誰に向けたとも言わない。
 Enterは、弱く押した。

 数日後。
 窓際に、影が戻った。

 フードは同じ。
 姿勢も同じ。

 そして、タタタ、タン。
 軽い朝の音。

 十一時半。
 コーヒー。
 一口目、短い。
 二口目、長い。

 三口目の前で、彼は一瞬だけ、こちらを見た。
 目が合った。
 初めての、現実。

 小さくうなずく。
 それだけで、十分だった。

 彼はEnterを押す。
 カン。

 その音は、返事みたいに、澄んでいた。

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