小学校の教室で、毎日当たり前のように交わされる連絡帳。
そこにある「空白」が、気になり始めた担任教師の視点から、静かな物語は始まります。
見えない事情と、言葉にしない思いやり。
忙しい一日の終わりに、そっと心をほどいてくれる短編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:5分前後
- 気分:静かであたたかい/じんわり胸に残る
- おすすめ:子どもに関わる仕事をしている人、言葉にできない優しさを信じたい人
あらすじ(ネタバレなし)
担任教師の「私」は、クラスの児童・みなとの連絡帳に、いつも保護者のサインがないことに気づきます。
几帳面な字、忘れられない宿題。それでも続く空白に、違和感を覚えながらも、急かさず見守る日々。
家庭訪問をきっかけに、その空白の理由と、静かに交わされていた約束が明らかになっていきます。
サインの有無では測れない「見ている」という気持ちが、少しずつ形になって届く物語です。
本編
四月の終わり、連絡帳の回収はいつも同じ匂いがした。
鉛筆の芯と消しゴム、少し湿った紙。
私は教卓でページをめくりながら、丸をつけていく。
その中に、毎回ひとつだけ、引っかかる帳面がある。
二年一組、相川みなと。
字は丁寧。宿題も忘れない。
けれど——保護者欄が、いつも空白だ。
最初の週は見落とした。
二週目で気づき、三週目で確信した。
注意書きを赤で添える前に、私は本人に聞いた。
「おうちの人、見てくれてる?」
みなとはうなずいた。
「うん。ちゃんと見せてるよ」
目は逸らさない。
嘘をつく子の仕草ではなかった。
私は、しばらく待つことにした。
忙しさや、うっかりは、どの家庭にもある。
ただ、空白は続く。
家庭訪問の日が来た。
地図アプリの案内が、細い路地で止まる。
チャイムを鳴らすと、少し遅れて、女性が出てきた。
「……担任の方、ですよね。どうぞ」
部屋は整っている。
洗濯物は畳まれ、机の上に連絡帳が置いてあった。
私は、それに目を留めた。
「連絡帳、いつもありがとうございます」
そう言うと、女性は一瞬、息を止めた。
「……サインのこと、ですよね」
先に言われて、私は頷いた。
「見ては、いるんです」
彼女は静かに続けた。
「ただ……書けなくて」
理由は、簡単で、簡単じゃなかった。
利き手を怪我してから、文字を書くと手が震える。
それが、みなとに知られるのが、嫌だった。
「大人なのに、って思われそうで」
そう言って、彼女は笑った。
笑顔は、少し疲れていた。
私は、連絡帳を開いた。
みなとの字は、丸く、まっすぐだ。
「……みなとくんは、知ってます?」
「いいえ。『見ました』って言えない代わりに、
毎晩、読んでるって約束したので」
約束。
私は、胸の奥がほどけるのを感じた。
その週の金曜日。
連絡帳が戻ってきた。
保護者欄に、サインはない。
代わりに、小さな付箋が貼ってあった。
『今日も読みました。ありがとう。』
文字は、ゆっくりで、線が少し揺れている。
でも、確かに、届いていた。
私は、丸をひとつ、いつもより丁寧につけた。
それから、付箋は続いた。
短い言葉。
天気のこと、給食の話。
どれも、署名はない。
ある日、みなとが言った。
「先生、あれね、サインだよ」
「そうなの?」
「うん。ママの」
誇らしげだった。
学期の終わり。
連絡帳の最後のページに、私は書いた。
『毎日、見てくれてありがとうございます。
サインは、ちゃんと受け取りました。』
次の日、付箋が一枚、増えていた。
『こちらこそ。これからも、読みます。』
空白は、空っぽじゃなかった。
言葉にできない事情が、静かに置かれていただけだ。
サインは、あとで届く。
急がせなくても、ちゃんと。

