不安を減らすための「完璧な体験」が、かえって心に引っかかることがあります。
同棲前の予行演習として用意された理想的な部屋で、恋人同士のふたりは、違和感に触れていきます。
整いすぎた日常と、散らかった現実のあいだ。
関係の「続き」を考えたい夜に、そっと読みたい一編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:6〜7分
- 気分:静かで考えさせられる/やさしい余韻
- おすすめ:同棲や結婚を考え始めた人、完璧さに少し息苦しさを感じている人
あらすじ(ネタバレなし)
同棲前の不安を解消するため、恋人の紗季と「24時間レンタル同棲」アプリを試すことになった語り手。
仮想空間に再現された部屋は、衝突も不満も起きない、理想的な生活を提供してくれます。
高い満足度と引き換えに、失われていく小さな音や余白に、語り手は違和感を覚え始めます。
完璧な未来予測の先で、ふたりが選ぼうとするのは、数値では測れない関係のかたちでした。
本編
そのアプリは、広告文だけ見れば夢みたいだった。
《24時間レンタル同棲——同棲前に、未来を体験》
生活リズム、家事分担、衝突予測。VRと生活ログを使って、相性を数値化する。
「やってみようよ」
半年つきあった恋人の紗季は、スマホを差し出して笑った。
「不安、減るじゃん」
私はうなずいた。
減らしたい不安が、確かにあった。
ゴーグルを装着すると、部屋が立ち上がる。
白すぎない壁、木目の床、窓から入る朝の光。
私たちが「いいね」と言いそうな部屋。
「おはよう」
紗季が言う。声のトーンまで、現実と同じ。
朝食は同時に出来上がる。
食器は音を立てずに片づく。
ゴミは、出した瞬間に消える。
完璧だ。
仕事の時間。
オンライン会議の予定は被らない。
集中が切れそうになると、BGMが最適な音量で流れる。
夜。
どちらからともなく「今日はどうだった?」
言葉は衝突しない角度で、自然に並ぶ。
完璧すぎて、私は笑ってしまった。
「すごいね。喧嘩の芽、全部摘まれてる」
「いいことじゃない?」
紗季は、少し不安そうに言った。
違和感は、些細なところから始まった。
靴下が、落ちていない。
歯磨き粉のキャップが、必ず閉まっている。
私が嫌がる前に、嫌がる要素が消える。
私は、紗季の“ため息の前”が好きだった。
言葉にしない不満を、台所でコップを置く音で知らせるところ。
この部屋には、その音がない。
「ねえ」
私は言った。
「ここ、私がダメなときの余白、なくない?」
紗季は少し考え、画面の端に表示されたスコアを見る。
《満足度:98》
「……高いよ」
「数字はね」
彼女は、私の顔を見る。
ゴーグル越しでも、目は合う。
終盤、イベントが用意されていた。
“意見の不一致”。
テーマは、休日の過ごし方。
選択肢が浮かぶ。
私:家でだらだら。
紗季:外に出たい。
システムは、折衷案を即座に提示する。
午前は外、午後は家。
どちらも、少しだけ満足。
でも、その“少しだけ”が、妙に軽い。
現実なら、私は言う。
「今日は出たくない」
紗季は言う。
「じゃあ、来週ね」
不機嫌が残り、笑って終わる。
ここでは、不機嫌が残らない。
残らないことが、残念だった。
終了のカウントダウン。
部屋が、薄くなる。
「結果、どう思う?」
紗季が聞く。
私は正直に言った。
「この部屋なら、同棲できる」
「……でも?」
「この部屋じゃないと、無理な気がする」
紗季は、目を伏せてから、笑った。
「私も。完璧だと、練習する意味なくなるね」
ゴーグルを外す。
現実の部屋は、少し散らかっている。
洗いかけのマグ、開きっぱなしの窓。
私は靴下を脱いで、床に落とした。
紗季は眉を上げる。
でも、拾わない。
「明日でいい?」
「明日で」
沈黙が、少し重い。
それでも、ここには音がある。
完璧な仮想は、安心をくれる。
不器用な現実は、続きをくれる。
私はマグを手に取る。
「……来週、試しに一泊しない?」
紗季は、うなずいた。
「練習、じゃなくてね」
窓から風が入る。
部屋は、完璧じゃない。
だから、私たちは座れる。

