仕事に追われ、評価も将来も見えなくなった夜。
もし過去の自分にだけ言葉を送れるとしたら、あなたは何を書くでしょうか。
この物語は、未来を変えるためではなく、「今を続ける理由」を確かめるための対話を描いています。
眠る前の数分、心を静かに整えたいときに読んでほしい一編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:6〜7分
- 気分:静かで内省的/背中をそっと押される
- おすすめ:仕事に迷いを感じている人、辞めたい気持ちと続けたい気持ちの間にいる人
あらすじ(ネタバレなし)
過去の自分にだけ通知を送れるSNS「TimeMe」に登録した語り手は、一年前の自分へ「やめてもいいよ」とメッセージを送ります。
返ってきたのは、理由のない短い拒否と、いくつかの曖昧な予告。
現在と過去の対話は、社内の掲示や何気ない記憶を手がかりに、少しずつ意味を帯びていきます。
やめることも続けることも否定しない言葉の先で、語り手は「今」を選び取ろうとします。
本編
新サービス「TimeMe」は、妙に静かなSNSだった。
フォローも、いいねも、広告もない。
あるのは、過去の自分にだけ送れる通知という一点だけ。
仕事に疲れ切った夜、私は登録した。
残業三日目。ミスの連鎖。評価は平均、将来は不透明。
画面の入力欄に、日付が選べる。
一年前。
迷わず選び、短い文を打った。
「やめてもいいよ。」
送信。
それで、少しだけ楽になった気がした。
過去の自分に許可を出すなんて、ばかばかしい。
でも、そのばかばかしさに、救われた。
翌朝、通知が来た。
見慣れない音。心臓が跳ねる。
《TimeMe:1件の返信》
私は息を止めて開いた。
「まだ、やめないで。」
短い。
理由も、感情も、説明もない。
ただ、拒否。
胸の奥が、ちくりとした。
返事を打つ。
「どうして?」
しばらくして、返信。
「来週、君は“偶然”を拾う。」
腹立たしいほど、曖昧だった。
占いか。
私は端末を伏せ、出勤した。
タイムラインは、私と一年前の私の会話だけで満ちていく。
昼休み。
私(現在):「偶然って何」
私(過去):「廊下の掲示。左下。」
午後。
言われた通り、掲示板の左下を見る。
社内公募の張り紙。新規プロジェクトの短期メンバー募集。
条件は厳しいが、期間は三ヶ月。
私は写真を撮り、スクロールした。
私(現在):「これ?」
私(過去):「うん。応募しなくていい。見るだけで」
見るだけ?
意味が分からないまま、仕事に戻る。
夜。
返信が来た。
「一年前の今日は、君は“比べるのをやめた日”だ。」
私は眉をひそめた。
覚えがない。
「やめてない。今も比べてる」
「比べてるのは、他人じゃない。過去の自分だ。」
指が止まる。
タイムラインの上部に、会話が静かに積み重なる。
数日後。
例の張り紙が更新された。
プロジェクトの概要が少し具体化している。
私は、また写真を撮った。
私(現在):「見た」
私(過去):「それで十分。今は」
腹立たしいほど、優しい言い方だった。
まるで、先回りして私を撫でるみたいに。
金曜の夜。
私はつい、送ってしまった。
「正直に言って。あのとき、何があった?」
返事は、少し遅れた。
「君は、帰り道で立ち止まった。
閉店する古い店の前で、シャッターを見ていた。
終わる音を聞いて、始まりは無音だって思った。」
胸が、静かに鳴った。
思い出した。
その夜、私は日記に一行だけ書いたのだ。
——やめる理由より、続ける理由の方が、今日は小さい。
土曜の朝。
通知。
「やめてもいい、は真実。
でも、今じゃない。」
私は返した。
「いつ?」
「決めなくていい。
決めないで進め。」
窓を開ける。
風が、机の紙を揺らした。
掲示の写真が、画面に残っている。
日曜の夜。
私は、最後に打った。
「ありがとう。続ける」
すぐに、既読がついた。
でも、返信は来なかった。
タイムラインの最下段に、灰色の表示が出る。
《この日付への送信は終了しました》
私は端末を伏せ、深呼吸する。
過去は、もう返事をくれない。
それでいい。
未読のまま、進め。
一年前の自分が、そう言っている。
私は明日のアラームをセットし、灯りを消した。
始まりは、たいてい無音だ。
