朝八時半。白衣に袖を通すと、気持ちが少しだけ引き締まる。
調剤薬局「みなと薬局」の薬剤師・涼子は、開店前の店内を一巡しながら、棚の薬をひとつひとつ確認する。ピッと音を立てて、電子カルテから処方せんが届くのは、たいてい九時を回ってからだ。
——今日も、誰かの暮らしと向き合う一日が始まる。
午前中、最初にやってきたのは若い母親と2歳の男の子だった。処方せんには「アモキシシリン小児用細粒」とある。
「粉薬なんですが、どうしても飲んでくれなくて……」
困った表情の母親に、涼子は優しく微笑む。
「アイスやジャムに混ぜると飲みやすくなりますよ。ただし、全部は混ぜずに、飲ませる分だけにしてくださいね」
「え、そうなんですか?」
「薬の効果が落ちてしまうことがあるので。あとは、薬局オリジナルの“薬飲みゼリー”もありますよ」
そんなアドバイスが、母親の肩の力を少し抜いたようだった。
午後になると、今度は一人暮らしの高齢女性が杖をついて現れる。処方せんの内容は、血圧と糖尿病の薬。そして、軽い不眠用の漢方。
「最近ね、飲み忘れが多くて困ってるの」
「一包化しましょうか?朝昼晩をひとつずつにまとめますよ」
「あら、そんなこともできるの?」
「もちろんです。こうしておけば、見た目でも分かりやすくなります」
涼子は手早く機械を操作し、一包化のラベルに「朝」「昼」「夜」と時間帯を明記した。手渡すと、女性は少し驚いた顔をして、やがて嬉しそうに笑った。
「あなた、いつも細かく見てくれるわねぇ。ありがとう」
「お大事にしてくださいね」
処方せんの向こうには、いつも“暮らし”がある。薬の量や飲み方だけでは見えない、家族構成や生活のリズム、不安や迷い。それらすべてを、涼子は見逃さないように心がけていた。
夕方、急に入った処方せんは「心療内科」からのものだった。20代の女性、抗不安薬と睡眠導入剤。ふと目をやると、カウンターの端にその本人らしき女性が座っていた。下を向き、スマホをじっと見つめている。
「〇〇さん、お薬の説明をさせていただきますね」
声をかけると、彼女は少しだけ顔を上げた。
「初めてのお薬ですから、眠気や注意力の低下が出るかもしれません。最初の数日は、無理せず過ごしてくださいね」
「……はい」
「副作用がつらい時は、遠慮なくお電話ください。無理に我慢しなくて大丈夫です」
彼女は一瞬目を丸くし、そしてかすかに頷いた。
——それだけのやりとりで、誰かが少し楽になるなら。
薬剤師は、処方せん通りに薬を出すだけの仕事ではない。けれど、それが誰かの日常を支える一歩になることを、涼子は知っていた。
「今日も処方せん通りに、ですね」
退勤前、棚を整えながら独りごと。
明日もまた、誰かの暮らしの傍らで。小さな声に耳を傾け、薬の先にある気持ちをそっと包みこむ。
涼子の一日は、静かに幕を下ろしていった。