#ジャンル:ドラマ
#トーン:感動
#登場人物:青年
夜の帳が降りた高速道路を、バスが静かに進んでいた。車内は薄暗く、乗客のほとんどが眠りについている。時折、街灯の光が窓から差し込み、ぼんやりとした影を映し出す。
後方の座席で、一人の青年が窓の外を見つめていた。佐々木翔太、二十六歳。東京で夢を追いかけていたが、現実の厳しさに押し潰され、すべてを諦める決意をした帰り道だった。小説家になりたかった。けれど、どれだけ努力しても芽は出ず、出版社の門を叩いても相手にされなかった。東京での暮らしも厳しく、気づけば貯金は底をついていた。
「あなたも、眠れないの?」
隣の席から、静かな声がした。見ると、上品な身なりの老婦人が微笑んでいた。七十代くらいだろうか。白髪が美しく、端正な顔立ちをしている。
「……ええ、まあ」
翔太は曖昧に答えた。老婦人は微笑んだまま、バッグから飴玉を取り出し、差し出してくる。
「よかったら、どうぞ。夜行バスは乾燥するでしょう?」
断る理由もなく、翔太はそれを受け取った。口に含むと、ほのかな甘みが広がる。
「ありがとう……ございます」
「いいのよ。こんな時間に目を覚ましているのも、何か考え事をしているせいかしら?」
そう言われ、翔太は苦笑する。
「そうかもしれません」
「私も同じよ。こんな歳になっても、悩みは尽きないものね」
老婦人は、ふっと遠くを見るような目をした。
「……もしよければ、聞かせてもらえますか?」
不思議と、話してみたいと思った。こんな偶然の出会いなのに、心が静かに開いていくのを感じたのだ。
老婦人――西村静子は、息子との確執を抱えていた。夫を亡くして以来、息子を一人で育てたが、いつしか二人の間には深い溝ができていた。価値観の違い、すれ違い、そして最後に交わした冷たい言葉。それから何年も、連絡を取らずにいた。
「でもね、最近になって思ったの。私が死んでしまったら、もう謝ることもできないのよね」
「……会いに行くんですか?」
「ええ。でも、もし拒まれたらと思うと、怖くて仕方ないの」
翔太は黙っていた。静子の話は、自分自身のことのように感じられた。
「あなたも、何かを諦めた顔をしているわね」
鋭い指摘だった。翔太は小さく笑い、静かに語り始めた。夢を追ったこと、叶わなかったこと、そして今、逃げるように東京を去ろうとしていること。
「それでも、小説を書くのは好きなの?」
静子の問いに、翔太は答えられなかった。でも、胸の奥では知っていた。書くことを嫌いになったわけではない。諦めただけだった。
「……好きです」
「なら、やめるのはもったいないわ」
「でも、もうダメなんです」
「そんなこと、誰が決めるの?」
その言葉に、翔太は息をのんだ。誰が決めるのか――本当は、自分自身が勝手に諦めていただけなのかもしれない。
バスは、やがて終点に近づいていた。窓の外には、夜明けの光が差し込んでいる。薄紅色の空が広がり、新しい朝の始まりを告げていた。
「私は、息子に会いに行くわ。どんな結果になっても、まずは向き合ってみる」
静子はまっすぐな目で言った。その姿が、眩しく見えた。
「俺も……もう一度、小説を書いてみようと思います」
翔太の中に、新しい決意が芽生えていた。結果がどうであれ、もう一度、全力でぶつかってみよう。夢を諦めるのは、その後でも遅くない。
バスが停車し、乗客たちが降りていく。翔太と静子も、それぞれの道へと歩き出した。
「お互い、頑張りましょう」
静子の言葉に、翔太は深くうなずいた。
「ええ、約束です」
夜明けの街を、二人はそれぞれの未来へ向かって歩き出した。