#ジャンル:ファンタジー
#トーン:ノスタルジック
#登場人物:老人
古びた屋敷の庭に、一匹の猫が現れた。
名をムクという。灰色の毛並みを持つその猫は、庭の石畳にちょこんと座り、まるで昔からここにいたかのように振る舞っていた。
「じいさん、この庭は特別だ」
猫が話すのを聞いたとき、三郎は驚きもしなかった。長年一人で暮らしていると、不思議なことにも慣れるものだ。
「ほう、特別とは?」
「この庭には時間を止める力がある」
三郎はゆっくりと腰を下ろし、庭の風景を見渡した。築百年を超えるこの屋敷の庭には、大きな桜の木があり、四季折々の花が咲く。しかし、長いことこの庭を世話している三郎は、ある奇妙なことに気づいていた。
この庭の花は、枯れない。
何年経っても、同じ花が咲き続け、木々は散ることなく葉を落とさない。それはまるで、この庭だけが時間の流れから切り離されているかのようだった。
「過去に戻りたいか?」
ムクが問う。
三郎の心がわずかに震えた。
彼がこの屋敷でひっそりと暮らすようになったのは、最愛の妻・美咲を亡くしてからだった。若いころは庭師として働き、美咲と共にこの庭を育てた。しかし、美咲が病で亡くなってからというもの、時間は彼にとってただの重荷になった。
「……もし戻れるなら、美咲が生きていた頃に戻りたい」
「できるぞ。この庭の力を使えばな」
ムクは尾を揺らしながら、桜の木の下へ歩いていく。その姿は、まるで三郎を導くようだった。
「ただし、代償がある」
「代償……?」
「過去に戻れば、今の世界は失われる。つまり、お前が過去に戻ることで、今のこの庭も、すべての時間も、消えてしまうんだ」
三郎は目を閉じ、静かに考えた。
もしも過去に戻れば、若き日の美咲にまた会える。もう一度、二人で庭を作り、幸せな日々を過ごせるかもしれない。しかし、それは同時に今を消し去ることを意味する。
美咲が生きた証も、彼女と過ごしたこの屋敷も——。
「どうする?」
ムクの問いに、三郎はしばし沈黙した。そして、やがて静かに微笑んだ。
「……このままでいい」
ムクは意外そうに、尻尾をゆっくりと振った。
「いいのか? お前が望んでいたことじゃないのか?」
三郎は優しく桜の木の幹に手を触れた。
「美咲と過ごした時間は、すでに私の中にある。たとえ過去に戻れなくても、この庭に立てば、あの頃と変わらず美咲を感じられる」
桜の葉がふわりと舞った。その一枚が三郎の肩に落ちる。
「それで、十分なんだよ」
ムクはしばらく三郎を見つめ、それから目を細めて言った。
「……いい選択だ」
それを最後に、ムクは静かに姿を消した。まるで最初からそこにいなかったかのように。
それから、三郎は変わらぬ日々を過ごした。
枯れることのない庭の花々を世話し、桜の木に語りかけながら、静かに、美咲の思い出と共に生きた。
やがて、三郎がこの世を去ったとき、庭の時間は再び流れ始めた。
桜は散り、新しい芽が息吹く。
その庭の片隅には、一匹の灰色の猫が静かに座っていた。
「じいさん、いい人生だったな」
ムクはそう呟くと、ゆっくりと庭を後にした。
——永遠の庭に、別れの時が訪れたのだった。