病室206号の午後

日常

#ジャンル:日常
#トーン:温かい
#登場人物:患者

 骨折なんて、人生で初めてだった。

 体育の授業中、バスケットボールの試合で派手に転び、左足を骨折。全治一ヶ月の診断を受けた慧(けい)は、仕方なく病院のベッドに横たわる日々を過ごすことになった。

「まったく、ついてねえ……」

 最初の数日は、退屈でたまらなかった。スマホをいじるか、眠るか、食事をするか。その繰り返し。けれど、次第に病室の住人たちの存在が気になり始めた。

 ここは206号室。四人部屋。

 一番窓側のベッドには、おしゃべり好きなおばあちゃんがいる。毎日ナースステーションに遊びに行き、看護師と世間話をするのが日課らしい。慧がうっかり目を合わせると、すぐに話しかけられる。

「坊や、どこの学校? 彼女はいるの?」

 慧は苦笑しながら、「いません」と答えた。すると、「今どきの若い子はシャイなのねえ」と言われ、適当に相槌を打つ。

 もう一人の入院患者は、スーツ姿の無口な会社員。いつもノートパソコンを開いている。病人らしくないピシッとした姿勢で、たまに短い電話をしているが、他の人とはほとんど話さない。

 そして、毎日206号室を訪れる幼い少女がいた。

 慧よりずっと小さな子供、小学二年生くらいだろうか。茶色いショートカットの女の子で、赤いランドセルを背負ってやって来る。

「こんにちは!」

 明るく元気な声で病室に入ってくると、彼女は真っ直ぐ会社員の男性のベッドへ向かう。そして、無言の彼にぴたりと寄り添い、絵本を取り出して読み始めるのだった。

「おじさん、今日も読んであげるね!」

 それが日課のようになっていた。

 慧は気になっていた。

 ──彼女とあの会社員、どういう関係なんだろう?

 親子にしては、会話がよそよそしい気がする。それに、会社員の男性は彼女が来ても特に嬉しそうな素振りを見せない。ただ黙って、本を読んでいる少女の声を聞いているだけだった。

 ある日、慧は思い切って聞いてみた。

「ねえ、あの子……誰なの?」

 おばあちゃんが答えた。

「あの子はね、あの人の娘じゃないのよ」

「えっ?」

「病院の近くに住んでる子でね、前にこの病室にいたおじいさんと仲良しだったの」

 おばあちゃんの話によると、少女はかつてこの病室で長く入院していた高齢の男性と親しくなり、よく絵本を読んであげていたらしい。でも、そのおじいさんは数ヶ月前に亡くなった。

「それでもあの子、病院に通い続けてるのよ。おじいさんがいたベッドの場所に、今はあの会社員さんがいるからね」

 少女は、自分が絵本を読んでいた相手が変わったことに気づいていないのか、それとも気づいていながら続けているのか……。

「でも、会社員の人、嫌がってる感じじゃないよね」

「そうねえ、あの人も誰かと話すのが苦手みたいだから。あの子のおかげで、ちょっとは気が紛れるんじゃない?」

 そうかもしれない。

 慧は病室の隅から、少女が静かに読み上げる声を聞いた。

「……おしまい!」

 少女が本を閉じると、会社員はわずかに頷いた。

「ありがとう」

 短く、それだけを言った。

 少女は満足そうに笑って、「また明日ね!」と病室を飛び出していった。

 慧はふと、会社員の男性の顔を見た。

 ほんの少しだけ、柔らかい表情になっていた。

 病室206号の午後には、確かに優しい時間が流れていた。