月面マーチ

SF

#ジャンル:SF
#トーン:未来感
#登場人物:警備ロボット

観光化が進んだ月面都市〈ルナ・シティ〉では、地球からの旅行者が銀色のドーム内で無重力スポーツやクレーター・クルーズを楽しんでいた。その喧騒から遥か離れた場所──「裏側の谷」は、誰も訪れない静寂の地だった。

その谷を巡回するのは、旧型警備ロボットのアーグと、案内人ナナの二人。

「また誰も来てないみたいだね」

ナナは気楽に言う。任務というより散歩に近いルーチン。アーグは無口だが、精密な歩調でナナと並んで歩く。ナナは密かにそれを「月面マーチ」と呼んでいた。

谷は光の届かぬ場所。太陽が差さないこの地で、唯一の音は二人の足音と、通信機のノイズだけだった。

ある日、ナナが異変に気づく。

「ねえ、これ……足跡?」

月面は風がないため、残された痕跡は消えない。それでも、この足跡は新しかった。砂をわずかに押し、真っ直ぐ谷の奥へと伸びている。

「観光客? まさか……」

管制には未報告。アーグも記録にないと静かに点滅した。

二人は足跡をたどり、谷の奥深くへ進む。そこにあったのは、古びた宇宙服の一部と、壊れかけた通信端末。そして岩陰には、手書きの譜面が残されていた。

『月面マーチ』――それはタイトルだった。

ナナは譜面を拾い、ふと歌い出す。ゆったりとした、でもどこか懐かしい旋律。無線越しに音が揺れ、静寂の谷に音楽が流れた。

「これ……誰が書いたんだろう」

アーグは通信端末を解析し、ある名を割り出した。

“イサム・タチバナ”──月面探検黎明期の宇宙飛行士。事故で消息を絶ったが、遺体は発見されていなかった。

「でも、この足跡は新しい……」

ナナは言葉を失った。まるで時を越えて、彼が今、ここにいたかのように。

突然、端末から微かな音声が流れた。

「……アナタ……き……えないで……」

ノイズ混じりの声。だが確かに、そこには“歌”が含まれていた。誰かが、遠い時間から送り続けた声。宇宙に届かぬまま、月面に宿った祈りのような旋律。

「もしかして、この谷は……彼の“ステージ”だったのかも」

ナナは譜面を大事そうに胸にしまった。

基地へ戻った彼女は、ミッション報告とは別に、“足跡の再調査”を申請した。だが回答は冷たかった。

「記録にない足跡、遺物はすべて自然現象と判断。報告不要」

それでも、ナナはあの谷へ通い続けた。毎週、アーグと共に。彼女の中で、『月面マーチ』はただの歌ではなかった。誰かの想いが込められた、消えない足跡の証。

そしてある夜、満月の明かりが谷に差し込んだとき──

風もないのに、微かに砂が舞った。アーグが感知した振動は、ナナの足元から始まり、一定のリズムを描いていた。

タッ、タッ、タッ。

まるで、誰かが月面を歩いているような、そんな音だった。

ナナは静かに微笑み、口ずさんだ。

「行こう、アーグ。今日もステージの点検だよ」

二人の影が、白い谷にのびていく。

そこにはもう、確かに誰かが歩いた“道”があった。