#ジャンル:日常
#トーン:温かい
#登場人物:パン屋
まだ外が暗いうちから、小さな町のパン屋「くるみ堂」は動き出す。
朝4時。店主のサキはエプロンを締め、オーブンのスイッチを入れながら、古びたラジオのダイヤルを回す。パチパチと雑音の後、AMラジオの穏やかな声が流れ始める。
「おはようございます、早起きのみなさん。今日も一日、どうか穏やかに」
それが、くるみ堂の一日のはじまりの合図だった。
開店は朝6時。焼きたてのクロワッサン、甘いメロンパン、もっちりとした食パンが並ぶ店内に、町の人々がひとり、またひとりとやってくる。
なかでも毎朝6時5分に現れるのが、常連のフジコおばあちゃんだ。
「おはようさん。今日はくるみパン、焼けてる?」
「はい、ちょうどいい焼き色ですよ」
フジコさんは、くるみパンを2つと、ジャムパンを1つ買っていく。袋を受け取ると、店先のベンチに腰をおろして、ゆっくりとひとつを食べるのが日課だった。
「パンを食べながら聞くあのラジオが、ええのよ。昔の歌、なんか安心するわねぇ」
サキは、フジコさんがラジオにあわせて小さく鼻歌を歌うのを、密かに楽しみにしていた。
町はゆっくりと変わっていく。駅前の書店がコンビニに変わり、隣の八百屋がシャッターを下ろした。けれど、くるみ堂とAMラジオだけは、変わらないままだった。
だが、ある日。
6時5分を過ぎても、フジコさんは現れなかった。
「寝坊、かな……?」
そんな日もある。そう思っていたが、次の日も、またその次の日も姿は見えなかった。
サキは心配になり、彼女の家を訪ねようかと考えた。だが、迷っているうちに、一週間が経った。
その週末、パンを買いに来た近所の女性がぽつりと告げた。
「フジコさん……この前、静かに亡くなられたんですって」
サキは、声が出なかった。
ふと、あの朝の光景が蘇る。ベンチでパンを頬張りながら、ラジオに耳を傾ける小さな背中。
「そうですか……」
その日、サキはくるみパンを2つだけ焼いた。ベンチに袋を置き、ひとり、ラジオの前に座った。
番組では、リスナーの投書が読まれていた。
『毎朝、ラジオとパン屋さんで始まる日が、私の元気の源です。いつか、あの優しい声にお礼を言いたい』
差出人は「フジコ・T」。
サキは、ラジオに向かって、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。フジコさん……」
翌朝、くるみ堂の入り口に、ひとつの張り紙が貼られた。
『本日限定・ありがとうセット くるみパンとジャムパン』
ラジオの声が、やさしく重なった。
「今日もどこかで、大切な朝が始まりますように」
パンの香りとラジオの声に包まれて、小さな町はまた目を覚ます。
そして、ベンチの隣の席には、誰かが座っていた。
「あの、おばあちゃんがいつも食べてたパン、私も食べてみたくて」
サキは微笑んでうなずいた。
フジコさんの朝は、たしかに誰かの朝へと繋がっていた。