雨が降ると、紗季は決まって遠回りして帰った。
駅前のロータリー、古い本屋の前に立つ無口な青年に会うためだ。彼はいつも、駅から出てきた人にそっと傘を差し出していた。大きなビニール傘。無言のまま、にこりともせず。
「変な人」
最初はそう思っていた。でも、ある日、会社帰りにどしゃ降りにあい、傘を忘れた紗季に彼は黙って傘を差し出してくれた。
「……ありがとう」
それが、最初のやりとりだった。
以来、雨の日に彼を見るのが、ささやかな癒しになった。
紗季は最近、また失恋したばかりだった。三十歳を前にして、三度目の別れ。何がいけなかったのかも、どうして毎回同じような結末になるのかも、もうわからなかった。
でも、雨の中、無言で傘を貸す彼の姿を見ると、不思議と心が落ち着いた。
人はこんなにも無口で優しくなれるのだ、と。
ある日の夕方、空は鉛色に重く、風が唸りをあげていた。
「嵐、来るかな……」
紗季はコンビニのビニール傘を握りしめ、帰り道を急いでいた。
ふと、ロータリーの向こうに彼の姿が見えた。だが、いつものように傘を差し出すこともなく、濡れたまま立ち尽くしている。
「……え?」
紗季は思わず駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
彼ははっとしたように顔を上げた。少し戸惑ったような目。
「……今日は、傘、持ってなくて」
声を聞くのは初めてだった。低くて、静かで、どこか寂しげだった。
「私の、使いますか?」
紗季は自分の傘を差し出した。彼は少し目を丸くして、そして笑った。
初めて見る笑顔だった。
「……ありがとう。だけど、大丈夫です。濡れるの、嫌いじゃないので」
雨音の中で、彼の言葉がやけにまっすぐ響いた。
二人は、傘を半分ずつ差しながら、駅の向こうのバス停まで歩いた。
「いつも、傘を貸してるのは……なんでですか?」
紗季の問いに、彼は少し考えてから答えた。
「昔、雨の日に傘をもらって助かったことがあるんです。だから、誰かが困ってたら、同じことをしたくて」
「その人とは……その後?」
「会ってません。でも、覚えてる。すごくあたたかかったんです」
紗季は黙って、彼の横顔を見つめた。
雨はやがて小降りになり、雲の合間から微かに光が差しはじめた。
バス停に着くと、彼は紗季に向き直って言った。
「……よければ、今度は、あなたにも。ちゃんと傘を返しに行きたいです」
「……それって」
「コーヒーでも飲みませんか。晴れた日に」
紗季は少しだけ笑って、頷いた。
「はい。晴れた日、がいいです」
雨上がりの風が、ふたりの肩に触れた。
それは、濡れた心がゆっくり乾いていくような、優しい風だった。
そして、ふたりの距離をそっと、近づけた。