【短編小説】水溜まりの向こう側

ファンタジー

雨が止んだばかりの朝、通学路にはいくつもの水溜まりができていた。

小学五年生の理央は、いつものようにランドセルを背負い、跳ねるように水たまりを避けながら歩いていた。けれど、角を曲がった先で、ふと足が止まった。

それは、他のどれよりも大きくて、深い水溜まりだった。まるで、道そのものが空に吸い込まれたような光を湛えていた。

理央は、なぜかその水面に指先を伸ばした。

次の瞬間、世界が反転した。

足元が宙に浮き、空が裏返る。風のない風が吹き抜け、重力が失われた感覚の中で、理央は気がつくと見知らぬ場所に立っていた。

そこは、不思議な世界だった。

空は深い水色で、地面はやわらかな光を放っている。建物や木々はすべて左右反転したように歪んでいて、人影もない。ただ、静かに風鈴の音が響いていた。

「ようこそ、“こちら側”へ」

声に振り向くと、小さなフードをかぶった案内人のような存在がいた。性別も年齢もわからない。だが、どこか懐かしい匂いがした。

「君は“水の境界”を越えた。ここは、忘れられた想い出の国。帰りたければ、“ひとつだけ”、何かを手放さなくてはいけない」

「何かって……?」

「君の中にある、忘れられそうで忘れられない、たったひとつの想い出。それを、この世界に預けるのだよ」

理央は戸惑った。

案内人に連れられ、不思議な町を歩いた。反転した時計塔、空を泳ぐカイト、笑わない猫。すべてが美しくも、どこか儚くて、理央は胸の奥にざわつく何かを感じた。

町の中心に、「記憶の泉」があった。

「ここに手をかざすと、君の想い出がひとつ、泉に現れる。それを捧げれば、君は元の世界に帰れる」

理央はおそるおそる泉に手をかざした。

すると、水面にひとつの情景が浮かんだ。

夕暮れの公園、ブランコの影。隣にいるのは、幼い頃にいなくなった“おにいちゃん”だった。

――覚えてるよ、理央。ずっと。

それは、兄と過ごした最後の日の記憶だった。

事故のあと、理央はその記憶を閉じ込めていた。思い出すと、涙が止まらなくなったから。

案内人が静かに言った。

「これは、重い想い出だね。でも、これを置いていけば、痛みは消える。もう泣かなくてすむ」

理央は泉を見つめた。胸がぎゅっと締めつけられる。

だが、ふと兄の声が、泉の中から聞こえた気がした。

――理央、忘れないで。悲しんでいいんだよ。想ってくれて、うれしかった。

涙が頬を伝った。

理央はゆっくりと首を横に振った。

「これは、捨てたくない。悲しいけど、大事な想い出だから」

案内人はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頷いた。

「ならば、君はもう帰れる。大切なものを手放さない強さを持った者だけが、扉を開ける」

水面が光り、再び世界が反転する。

次の瞬間、理央は通学路の水溜まりの前に立っていた。

制服は濡れていない。時間も進んでいない。でも、胸の中だけが、確かに変わっていた。

その日から、理央は少しだけ変わった。

泣きたいときは泣くようになった。誰かに“さみしい”と言えるようになった。そして、ときどき、水溜まりに映る空を見つめては、ふっと笑うようになった。

――ありがとう、おにいちゃん。

夏の雨上がり、道の片隅にできた水溜まりが、小さく揺れた。

その向こう側には、いまも誰かの忘れた想い出が、そっと眠っているのかもしれない。

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