哲が「昼寝部屋」の存在を知ったのは、五月の蒸し暑い午後だった。
大学の講義と課題に追われ、眠気に負けて図書館の隅でうとうとしていたとき、同じゼミの吉田がこっそり教えてくれた。
「D棟の305教室、今は使われてないけど、机もないし暗幕もあるし、昼寝に最適なんだよ。知る人ぞ知る、ってやつ」
まさか大学の中にそんな秘密のスポットがあるとは思わなかった。好奇心と睡魔に勝てず、哲はその日の午後、さっそく教室を訪れた。
人気のない廊下を抜け、扉を開けると、そこには確かに眠るために用意されたような空間があった。
床にマットが敷かれ、古びたカーテンが西日を遮っている。エアコンはなく、静寂だけが満ちていた。
最初の昼寝は、驚くほど深かった。
目を閉じた瞬間、哲は夢を見た。
広いホールのような場所に、十人ほどの人々が立っていた。見覚えのない顔ばかりだったが、誰もがなぜか懐かしく感じられた。
だが、不思議なのは、目が覚める直前に一人が消えることだった。
すっと溶けるように、その場から姿が消える。そして他の誰も、それに気づかない。
次の日も、またその次の日も、哲は305教室で眠り、同じ夢を見続けた。夢の中の人々は変わらずそこにいて、しかし毎回、一人ずついなくなっていった。
そして、ある変化が起きた。
消えていった人物たちが、現実でも「失踪」していたのだ。
ニュースで報道された名前、張り出された捜索願の顔写真――それらは、夢の中にいた人物と一致していた。
哲は背筋が冷えた。
偶然か。脳が何かを混同しているだけか。だが、回数が重なるごとに、それは否定できないほど明白になっていった。
そしてついに、夢の中に残るのは哲自身と、黒い「影」のような存在だけになった。
影は輪郭が曖昧で、顔はなかった。ただそこに立ち、じっと哲を見ていた。
目が覚めると、身体は冷え切っていた。時計は二時間を指していたが、肌感覚はもっと長い時間を過ごしたように思えた。
「……ここはおかしい」
哲は305教室を離れようとした。だが足は重く、身体の芯に妙な疲労が残っていた。
彼はその夜、大学の記録を調べた。
数年前、D棟305教室では学生の自殺未遂があったという。過労と不眠、精神的不安定――その学生は、毎日ここで昼寝をしていたらしい。
「夢を見続けるたびに、自分が薄れていくようだ」という一文が、彼の遺したノートに書かれていた。
哲の中で、なにかが確信に変わった。
――あの夢は、“自我の解体”だ。
人の記憶が、想像が、眠りを通じて繋がっているのか。あるいは、あの教室自体が、何かを“食べて”いるのか。
翌日、哲は305教室に立ち寄らなかった。
代わりに、学内掲示板にひっそりと紙を貼った。
《D棟305教室での昼寝にご注意ください。夢に“名前のない影”が現れたら、決して眠らないこと》
数日は誰も気づかずに通り過ぎた。
だが、ある日その紙に書き加えられていた。
《……もう遅い》
誰の文字かはわからなかった。
そして、哲は気づいた。
最後の夢にいた影の姿は、徐々に“自分”と似ていたことに。
もう、自分はどちらの世界にいるのだろう。
それが夢か、現実か――誰が決めるのか。
窓の外は、あいかわらず白い昼光に満ちている。
でも哲の足は、なぜか305教室の方へ向かっていた。