旅人リオは、その日も異国の陽射しを浴びて、砂と香辛料の匂いが入り混じる市場を歩いていた。
色とりどりの布、陽気な音楽、行き交う声。遠く地中海の風が吹き込むこの町には、世界のどこにもない雑多な魅力があった。
ふと、路地の奥にひっそりと並ぶ屋台が目に留まった。そこだけ人影がなく、静まり返っているのに、どこか強く惹かれる。
屋台の奥には、紫色の不思議な果実が並んでいた。
「これは……?」
「“思い出の果実”。ひとつで、心の奥に眠る大切な記憶が蘇る代わりに、代償として別の記憶が消えていくの」
声に振り向くと、果実と同じ深い紫の瞳をした女性が立っていた。年齢はわからない。異国の風を纏ったような佇まい。
「旅人さん、過去に何か、忘れたいことでも?」
リオは曖昧に微笑みながら、試しにひとつ口に運んだ。
酸味と甘みが入り混じる、どこか懐かしい味。
その夜、夢に浮かんだのは、もう何年も思い出すことのなかった幼い日の景色だった。
母の歌声、夏の木陰、手を繋いだ兄の笑顔。
目が覚めると、胸がじんと熱くなっていた。
だが、異変はすぐに起きた。
朝の宿で、出された朝食の名を思い出せなかった。道に迷いかけた時、地図の読み方すら怪しくなっていた。
次の日、名前を尋ねられて、一瞬、答えに詰まった。
「まさか……」
リオは再び市場へと向かった。だが、あの屋台も、紫の瞳の女も、どこにもいなかった。
焦りと恐怖が胸を締めつける。
その夜から、リオはノートに記録をつけ始めた。自分の名前、年齢、家族、過去の出来事。それを読み返さなければ、少しずつ、すべてが霞んでいくのを感じた。
リオは決意した。
記憶が消える前に、“あの女”を探し出し、果実の謎を解く。そして、自分自身を取り戻すのだ。
旅は、遠く乾いた山地から、月光に濡れる湖の町、そしてかつて兄と訪れたという港町まで続いた。
リオは少しずつ、断片的な記憶を地図のように繋いでいった。
ある日、小さな村で聞いた古い伝承に、その答えがあった。
「思い出が果実になるのは、心の未練が熟すから。誰かに“本当の記憶”を語ることで、その果実は消える」
「じゃあ……僕の記憶も、誰かに話せば戻るのか?」
「記憶は戻らない。でも、誰かが“覚えてくれる”ことで、消えずに残るんだよ」
旅の終わりに、リオはふたたび市場にたどり着いた。
そこに、あの女はいた。あの日と同じ場所、同じ果実を並べて。
「思い出しましたか?」
「少しだけ。でも、もう全部覚えてる必要はないと思ってる」
リオは、ノートを女に差し出した。
「これを、誰かに渡してほしい。僕の代わりに、覚えていてくれる誰かに」
女は微笑んだ。
「あなたは、自分を語ることで、“記憶を託す”選択をしたのね。それもまた、美しい忘却のかたち」
その瞬間、最後の記憶が胸をよぎった。
兄と交わした言葉。「きっとまた、どこかで思い出すから」
リオは笑った。
「さよなら、“忘れたくなかった自分”。そして、ありがとう」
翌朝、屋台も女も消えていた。
けれど、リオのノートは、誰かの手に渡っていた。
その物語は、きっと別の誰かの記憶として、生き続けていくのだろう。