最寄り駅からバスで十五分、さらに坂道を下ると、渚町が見えてくる。海と山に挟まれた、どこか時間の流れがゆるやかな町。
青年・蒼太がその町に降り立ったのは、東京の仕事を辞め、心の整理がつかずにふらりと旅に出た末のことだった。
泊まるあても決めぬまま歩いていた彼を見つけたのは、小さな民宿の女将・ユキだった。
「よかったら、うち来なさいな。空き部屋もあるし、ごはんも出すから」
その一言が、すべての始まりだった。
民宿「夕波荘」は、昭和の名残を感じさせる木造建築。柱のしみや畳の香りが、不思議と懐かしさを誘う。
「お世話になります」
頭を下げると、廊下の奥から現れたのは、年の近そうな女性だった。
黒髪をひとつに結び、白いエプロン姿のその人は、蒼太に軽く会釈しただけで、何も言わずに去っていった。
「うちの娘の波音。口下手だけど、悪い子じゃないのよ」
その日の夕食。蒼太は波音と同じテーブルに着いた。食卓にはアジの塩焼き、味噌汁、炊きたてのご飯。ひと口食べて、驚いた。
「……おいしい」
思わず漏れた言葉に、波音がふとこちらを見る。
「よかった」
たった一言。でも、それは蒼太の胸をすっと軽くする響きだった。
それからの日々、彼は町の手伝いや民宿の掃除、夕食の配膳などを手伝うようになった。仕事というより、自然に体が動いていた。
夕方になると、決まって波音が海辺に立つ姿を見かけた。
その背中を追うように、蒼太も渚へと足を運ぶ。
「ここ、夕日がきれいに沈む場所なんだ」
ある日、波音が初めて、自分から話しかけてきた。
「夕波、って名前の由来も、ここからなの」
空は茜に染まり、波打ち際がオレンジ色に揺れている。
「きれいだな……」
蒼太は、その景色に心を奪われながらも、ぽつりと呟いた。
「……前の仕事、うまくいかなくて。人ともすれ違ってばかりで、逃げてきたんだ。何してたのか、自分でもよくわからなくて」
波音は何も言わずに海を見ていた。だが、次に口を開いたとき、彼女の声は波音のように穏やかだった。
「ここでなら、何もしなくても、いいよ」
その言葉に、蒼太の中の何かがほどけた。
翌日から、彼は少しずつ町の人々と話すようになった。漁師のおじさん、パン屋の夫婦、郵便局の若い職員。どこも「波音ちゃんの知り合いかい?」と笑顔で迎えてくれた。
町は優しかった。
ある晩、蒼太はふと、波音に尋ねた。
「どうして、そんなに人に優しくできるの?」
波音は、少し考えてから答えた。
「昔、私も心が壊れかけてた時期があって……でも、ここの海と町の人たちに救われたの。だから、今度は私が誰かの“居場所”になれたらいいなって」
その時、蒼太はようやく自分の気持ちに気づいた。
この町に来て、波音に出会って、自分は変わり始めていた。
——ここに、いてもいいんだ。
その日の夕暮れ。二人は渚に並んで立っていた。
潮風が髪を揺らし、夕日が水平線へと沈んでいく。
蒼太は、静かに言った。
「この景色、これからも……一緒に見ていけたらいいな」
波音は微笑んだ。
「うん。ずっと、ここにあるから」
赤く染まる空の下、波と心が寄せ合うように、彼らの物語がそっと始まった。