夏の終わり、「黒雲山」で登山客の失踪が相次いでいると聞いた記者・志帆は、背筋を張りながら単独で山に入った。地元では「山に呼ばれた者は帰れない」とささやかれているが、それでも彼女の好奇心は止まらなかった。
登山口から数時間歩いて、枝にくくりつけられた古い看板が目に入る。「←古道−」と毛筆で書かれた矢印。志帆は地図を確認し、困惑した。そこに“古道”など記されていなかったからだ。
だが、足は自然にその道へと向かっていた。木々がひんやりと影を落とし、苔むした石段が続く。苔の陰には、最近置かれたであろう空き缶や折れた傘が散らばっていた。ひび割れたコーヒーマグには、まだ温かさを感じさせる水滴が光っていた。
「誰かが、ここで……?」
胸の奥がざわついた。だが、記者として証拠を見逃すわけにはいかない。志帆は慎重に歩みを進めた。
しばらくすると、深い淵に架かる小さな木製の橋が現れた。土台はしっかりしている。しかし中央に立つと、足元から“ざらり”とした肌触りが伝わってきた。
——それはまるで、山が息をしているかのような感覚だった。
志帆は橋の下をのぞき込む。霧のような水蒸気がさわさわと揺れ、かすかに唸るような音がした。
その先にも古い平屋の小屋が見えた。窓は割れ、内部には布団と古い炊飯器。わずかに残る米の香りが鼻をくすぐる。
「ここに暮らしていた人がいた……最近まで?」
濃い霧が突然、周囲を包んだ。志帆は咄嗟にカメラを構えた。
だが、シャッターを切ると、霧の中にぼんやりとした人影が映り込んだ。赤い服を着た男女二人が立っていた。その姿は、一瞬笑ったようにも、苦悶に歪んでいるようにも見えた。
石段を降りながら、志帆は思った。この山には“記憶”があると。その記憶が、失踪者たちを“呼んでいる”のだろうか。
山を降りた後、志帆はその古道を正確に記録し、地図に書き加えた。
だが、後日。地元の登山協会が調査に向かうも、その道も小屋も、霧も人影も――すべてが跡形もなく消えていたという。
志帆は、その日まで風景も匂いも記憶の中にあった古道を確かに歩いていた。
山は静かに、その異形を守っているのかもしれない――消えた道の向こうにある、誰も帰れない記憶を胸に秘めて。