【短編小説】今日のごはんは、なんにする?

日常

朝の光がレースのカーテンをすり抜け、キッチンにやさしく降り注ぐ。真理は小さく伸びをしながら、炊飯器のふたを開けた。

「んー、今日もいい匂い」

隣の椅子では、3歳の息子・光が、お気に入りのスプーンをにぎりしめて座っている。

「ごはん、できたー?」

「もうちょっとだけ待っててね」

かつては営業職として忙しく働いていた真理。今は育児休業中で、朝から晩まで光と過ごす毎日だ。時計に追われる日々から一転、時間は穏やかに流れている。

とはいえ、穏やか=楽ではない。

「こーら! ごはんの前におもちゃ広げない!」

「ぴーまん、きらいー! たべないー!」

「お昼寝イヤー!」

そんな声が、今日も元気に部屋を飛び交う。

だけど、不思議だ。

小さなトラブルや癇癪すら、日々のリズムのように感じられてくる。真理の心には、確かに「母」という芯が根を下ろし始めていた。

午前中は近所の公園へ。

ベビーカーはもう卒業した光が、走っては転び、立ち上がってまた走る。真理は後ろから、帽子が飛ばされないか、道路に飛び出さないか、目を配りながら追いかける。

「ママー! おはなー!」

小さな手が差し出すのは、名もない雑草の花。それでも、その瞳には世界で一番美しい宝石のように映っている。

昼ごはんを食べて、絵本を読んで、お昼寝の時間。

「ママ、ねんねしていい?」

「うん、していいよ。大きくなれるからね」

「ぼく、ママみたいになるー」

小さく囁いて目を閉じる光に、真理はそっと頬を寄せた。

——こんな時間が、ずっと続けばいい。

けれど、光の成長は容赦なく、その「今」を塗り替えていく。

昨日まで履けたズボンが、今日はつんつるてん。

昨日まで食べられなかった人参が、「おいしい」になる。

ひとつひとつ、真理はその変化に驚き、そして愛おしさを積み重ねていった。

夕方。

「今日のごはんは、なんにする?」

真理が尋ねると、光は両手を広げて言った。

「カレーライスー!」

「じゃあ、お野菜切るの手伝ってくれる?」

「うん!」

小さな手に握らせるのは、プラスチックの安全な包丁。

人参に包丁をあてる姿は、おままごとにも見えるけれど、光にとっては“ちゃんとしたしごと”。

切った人参は不揃いでも、たまに空振りしても、真理は褒める。

「上手にできたね、すごい!」

カレーが煮えるあいだ、部屋中がやさしい香りに包まれる。

「ママ、きょうもたのしかったね」

「そうだね、今日もいい一日だったね」

ごはんを食べて、お風呂に入って、寝かしつけの時間。

「ママ、またあしたも、いっしょ?」

「もちろんだよ。明日もごはん、何にするか決めようね」

「うん……じゃあ……からあげ!」

小さな声がふわりと落ちて、布団の中に吸い込まれる。

寝息が静かに始まり、真理はそっと部屋を出た。

リビングに戻ると、散らかったおもちゃ、脱ぎ捨てられた靴下、未読の育児本が散乱している。

でも、その全てが、確かに“今日”を形づくっていた。

——明日もきっと、大変で、楽しい。

冷蔵庫を開け、鶏肉のストックを確認する。

「よし、明日はからあげ、決定だね」

小さなため息に、微笑みが混じった。

「今日のごはんは、なんにする?」

その問いに込められた日常の温度が、真理の心に静かに灯っていた。

タイトルとURLをコピーしました