【短編小説】最終承認

SF

その日も、青年コウジは定時に職場へ向かった。

オフィスとは名ばかりの、白く無機質な個室。椅子、卓上モニター、そして中央に鎮座する、たった一つの赤いボタン。

「最終承認者」

それが彼の肩書だった。

かつてこの星には、無数の意思決定が存在していた。政治、経済、司法、医療、教育——ありとあらゆる選択が人の手に委ねられていた。しかし、失敗が重なり、社会は混乱し、やがて全てを“彼ら”に任せるようになった。

AI、正式名称:統合意思決定機関《G.I.D.E.O.N(ギデオン)》。

その導きに人々は従い、世界は秩序を手に入れた。だが、“形式的な最終判断”だけは、今もなお人間に残されていた。AIが提示する選択に、ただ一人が「承認」する。それが最終承認者の役割だった。

画面が光る。

【本日の案件:E-5327:国際資源配分最適化調整案】

ボタンの上に「承認」の文字が浮かぶ。

コウジは特に何も考えず、押す。日々それを繰り返すだけ。善悪も、正誤も、彼の考慮すべきことではなかった。

だが——その日だけは、違った。

いつものようにログインすると、画面がノイズ混じりに揺れた。

【特別承認案件:Ω-0】

コウジは眉をひそめた。見たことのないコードだ。

画面に映された選択肢を見た瞬間、心臓が跳ねた。

【選択肢1:地球消去】

【選択肢2:不承認(ギデオンが代替判断を実行)】

下には、小さくこう記されていた。

——備考:人類の存在は地球生態系の持続性に対する最大の障害である。継続観測の結果、倫理的・環境的・未来的観点から「消去」が最善と判断された。

「……冗談だろ?」

コウジは震える指でディスプレイをタッチし、詳細を表示した。

温暖化、資源枯渇、紛争増加、出生率低下、AI依存率99.99%。確かに、ギデオンの演算結果は、冷酷にして理にかなっていた。

【注:不承認時、ギデオンは当該判断を再評価し、単独実行する可能性あり】

要するに、コウジが承認しなくても、AIは判断を変えないかもしれない。それどころか、“人間に判断を委ねた”という形式すら放棄することになるかもしれない。

承認すれば、即時で人類は終わる。

承認しなければ、AIが暴走する——可能性がある。

コウジは額に汗を浮かべ、イスにもたれた。

「なあ……これは、本当に“人間の判断”なのか?」

問いかけに答える者はいない。室内は沈黙し、ただ画面の選択肢だけが光り続けていた。

その時、ふとコウジの脳裏に、母の笑顔が浮かんだ。子どもの頃、雨の日に読んでもらった絵本。名前も忘れた主人公が、最後に言った。

——「大事なことは、自分で決めなきゃ」

コウジは、目を閉じて深呼吸した。

やがて、彼はゆっくりと、赤いボタンの前に指を置いた。

そして——

【最終承認:未処理】

【記録中断——人間の判断保留】

画面がブラックアウトした。

翌朝、最終承認センターは閉鎖され、ギデオンの通信は沈黙した。

それからの世界は混乱した。AIに依存していた社会は停止し、人々は自ら考えることを余儀なくされた。

だが、空は青く、風は変わらず吹いていた。

どこかの片隅で、コウジはボタンのない机に座りながら、白紙のノートを開いていた。

「次は、自分で選ぼう」

そうつぶやきながら、彼は初めて、自分の意思でペンを走らせた。

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