【短編小説】駅と駅のあいだで

ミステリー

午前七時三十二分発の下り電車。会社員の綾子は、毎朝同じドアから乗り込み、同じつり革を握る。

窓の外には変わらない街並み。スマホには通知の山。無意識にアプリを開き、既読スルーのメッセージを流し見る。

ふと、アナウンスが流れた。

「次は、……」

聞き慣れない駅名。綾子は顔を上げたが、スピーカーは音を歪ませてしまい、駅名は聞き取れなかった。

電車が減速し、ホームが見える。だが、車内の誰も降りようとしない。駅名表示もない、ただ静かなホーム。

綾子の足が勝手に動いた。

気づけば、彼女はその無名のホームに降り立っていた。

扉が閉まり、電車は音もなく去っていく。

「……なんで、降りたの?」

呟くように問いかけたが、返事はない。

駅は不思議なほど静かで、時計も動いていない。改札も売店もなく、ホームはうすく霞んでいた。

ベンチに座ると、隣にいた老人が口を開いた。

「ここは、“置き忘れた心”の駅じゃよ」

「え?」

「毎日、通勤の中で何かを落としていった者たちが、この駅にたどり着く。記憶、想い、願い……そういったものじゃ」

綾子は困惑した。夢だろうか、それとも幻覚?

「帰るには、自分の“忘れもの”を見つけなきゃならん」

そう言い残して、老人はすっと消えた。

辺りを見渡すと、ホームの隅に小さな扉があった。

開けると、そこにはまるで古い待合室のような空間が広がっていた。壁一面に、小さな引き出し。中にはメモ、写真、万年筆、鍵——さまざまな“忘れもの”が収められていた。

綾子の手が自然と一つの引き出しに伸びた。

中にあったのは、小学校の卒業文集だった。開くと、自分が書いた将来の夢が綴られていた。

“絵本作家になりたい。”

思い出した。

かつて、夢中で描いていたスケッチブック。書店で何時間も絵本を読みふけった放課後。けれど、就職活動、現実、生活——気づけばその夢は棚の奥に仕舞われていた。

「……私、これ、忘れてたんだ」

手に取った瞬間、部屋全体が柔らかな光に包まれた。

扉の外に出ると、先ほどまで誰もいなかったホームに、たくさんの人影が見えた。それぞれが自分の“忘れもの”と向き合っていた。

遠くから電車の音が聞こえる。

再び電車がホームに滑り込んできた。

綾子は、文集を胸に抱き、電車に乗り込む。

今度は、確かに帰るべき場所に戻れる気がした。

通勤電車のつり革の感触。窓に映る朝日。すべてが、少しだけ新しく感じられた。

「……絵、本、また描いてみようかな」

そう呟くと、隣の席の高校生が、不思議そうにこちらを見た。

日常と幻想の境界で、綾子はほんの少し、自分を取り戻していた。

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