父が亡くなったと連絡を受けたとき、渚はパリのレストランでワインを注いでいた。
ソムリエとして、誰よりも早く香りを読み、誰よりも深く味わいの奥行きを伝える。それが、彼女の仕事だった。だが電話の向こうで、実家の隣人が語る言葉には、どこか現実味がなかった。
「お父さん、最後まで畑にいたのよ。ワイン造りはもうやめたのにね……」
十年ぶりに戻った故郷の山間の町は、思ったより静かで、思ったより自分の記憶に染みついていた。
家の裏手に広がる葡萄畑は、手入れもされず、草に覆われていた。かつて整然と並んでいた葡萄の木は、枝を好き勝手に伸ばし、葉を茂らせている。ひと目で「死んだ畑」だとわかる。
リビングの机に置かれていたのは、父の古びた日記帳だった。
その最後のページには、たったひとこと、こう書かれていた。
――声を聞け。
意味がわからなかった。父は多くを語らない人だった。ワインの話も、畑の話も、そして家族の話も。渚がソムリエの道に進むことを伝えたときも、彼はなにも言わなかった。
だからこそ、ずっと距離を置いていた。
だが、ふと風が吹いたとき、畑の葉がさわさわと音を立てた。
それが、囁きのように聞こえたのだ。
渚は手を伸ばした。葉に触れ、樹皮を撫でる。指先にざらついた感触が伝わり、思わず幼い頃の記憶がよみがえる。夏の日、父の後ろをついて回り、木陰で眠っていた日々。
翌朝、彼女は畑に出た。
剪定バサミを握るのは久しぶりだったが、道具の重みは身体が覚えていた。伸びすぎた枝を切り、絡まった蔓をほどき、根元に溜まった雑草を抜く。
それは黙々とした作業だったが、どこか懐かしく、心が静かになっていくのを感じた。
数日後、町の酒屋の主人が訪ねてきた。
「親父さん、亡くなる前に小瓶を置いてったんだよ。“これは娘に渡してくれ”って」
受け取った瓶には、手書きのラベル。
――“無言の年”。
恐る恐る栓を抜き、グラスに注ぐと、深い琥珀色が広がった。香りは控えめだが、芯のある酸と、熟した果実の優しさ。派手さはないが、静かに余韻が続く味だった。
「……あの人らしい」
渚はそう呟き、グラスを胸に抱いた。
思えば、ワインとは“声のない言葉”なのかもしれない。
雨と風と土、太陽の記憶を集めて、人の手を借りて形になる。そして、それを飲んだ人の心に、静かに語りかける。
父は、それをずっと信じていたのだ。
日記の“声を聞け”という言葉は、畑の声であり、葡萄の声であり、父自身の声だったのだろう。
渚は決めた。パリには戻らない。この畑を、もう一度生き返らせる。それが、自分にできる精一杯の“返事”だった。
秋。葡萄は少しずつ実をつけはじめていた。小さく、まだ青い実。でも、たしかにそこにある。
渚は空を見上げる。
風が吹き抜け、葉が揺れる。
その音は、たしかに“声”に聞こえた。
――ようやく、聞こえたか。
そう父が笑った気がした。

