【7分で読める短編小説】ミュートの向こう側|言えなかった弱さがつないだ、やさしい連帯の物語

ドラマ

オンライン会議ではいつもカメラをオフにしている山岸。
理由を聞かれるたび誤魔化していたのは、母の介護という誰にも言えない事情があったからでした。
「助けて」と言えないまま背負い込んでいた重さが、たまたまのミスで露わになった瞬間——
返ってきたのは想像していた“最悪”とはまったく違う、温かい世界でした。
人とのつながりを思い出したい夜にそっと寄り添う短編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:あたたかい/救われるような気持ちになる
  • おすすめ:弱さを見せられずにいる人、在宅勤務で孤独を感じている人、誰かの優しさを思い出したいとき

あらすじ(ネタバレなし)

オンライン会議でいつも“カメラオフ”の山岸は、母の介護をしていることを誰にも告げられずにいました。
ミュートの向こう側に隠してきた生活音や不安を、同僚たちに知られるのが怖かったのです。
ところがある日、操作ミスでカメラがオンになり、母の姿が全員の前に映ってしまいます。
凍りつく山岸の心とは裏腹に、返ってきたのは同情でも詮索でもなく、ただの“仲間からの温かい声”。
その瞬間、山岸の中で固く閉じていた扉が、ゆっくりと開き始めます。

本編

 オンライン会議の通知音が鳴る。
 画面には、今日も並ぶ同僚の顔。
 俺のカメラ欄だけ、灰色のアイコンが光っている。

「山岸さん、今日もオフですか?」
 明るい声で先輩の三浦が言う。
「部屋が散らかってて、すみません」
「気にしないでくださいよ。いつか見せてくださいね」

 笑い声が広がる。
 俺は曖昧に笑いながら、マイクをミュートにした。

 本当は、散らかってなんかいない。
 むしろ、誰が見ても整っているほうだろう。
 ただ、この部屋にはある秘密がある。
 そして、カメラの向こう側にそれを見られるのが――怖かった。

 一年前。
 母が病気で倒れた。
 それからは自宅介護が続いている。
 在宅勤務は、会社の制度に救われた。
 だが、オンライン会議中に母が苦しんだり、呼吸器の音が響いたりする可能性がある。
 それが怖くて、ずっと「オフ」にしてきた。

 他人の視線は、想像するだけで重い。
 哀れみ、同情、気遣い――そのどれもが、今の俺には刺さる。

「助けて」と言えたら、どれだけ楽だろう。
 でも、言えなかった。

 その日の会議は、進行が早かった。
 資料共有のため、画面操作を任されていた俺は、タブを切り替えようとして――
 指が滑った。

《カメラ オン》

 ピッ、という小さな音。
 次の瞬間、画面の四角に自分の部屋が映った。
 白いカーテン、整えられたベッド、そして――
 ベッドの横の椅子に座り、静かに呼吸器をつけた母がいた。

「あ――」

 喉が引きつった。
 画面越しに、数人の表情が変わるのが見えた。
 息が詰まり、手が震える。

「す、すみません!」
 カメラを切ろうとする。しかし指が言うことを聞かない。

 ――最悪だ。
 同情される。
 気を遣われる。
 哀れまれる。
 もう仕事仲間として対等ではいられない。

 そう思った瞬間。

「山岸さん」
 三浦が、柔らかく声をかけた。
「お母さん、こんにちは。いつもお世話になってます。」

 続いて、他の同僚も笑顔で手を振った。

「山岸さん、言ってくださいよ。大変だったでしょう。」
「何か力になれることあれば言ってください。」
「体調、どうですか?無理してないですか?」

 涙が落ちる音が、マイクに乗りそうだった。
 慌てて口元を押さえた。

「ごめん……ずっと、言えなくて……」
「言えないのは、頑張ってる証拠ですよ」
 三浦の声は、責める色がひとつもなかった。

 母が小さな笑顔を浮かべ、画面の人たちに頭を下げた。
 その姿を見て、視界が滲んだ。

 会議が終わったあと、メッセージ通知が次々届いた。

《いつでも頼ってください》
《仕事は分担しましょう》
《味方いますから》

 スマホを握る手に力が入った。
 俺は静かに、涙を拭いた。

 思っていた“最悪”は、勝手に作った幻だった。
 本当の世界は、もっとあたたかかった。

 パソコンの前で、そっと呟く。

「……次から、カメラ、オンにしてみるよ」

 ミュート解除のボタンが、小さく光った。
 その光は、部屋のどこよりも明るかった。

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